六連問題集 世界史探求 現代 前期

問2の太字は、基礎レベルとして問2の段階で憶えたほうがいいものを示し、問5の太字は空欄にしていないが、難関大学のレベルでは憶えたほうがいいものを示す。問5の<>は稀に出題されるものを示す。


□帝国主義

問1 三択 正解を選びなさい。
問 自由主義の行き詰まりで「帝国主義」へ。独占資本主義段階の植民地の獲得政策のことである。第二次大戦以後は「新植民地主義」と言い、内容は、多国籍企業の資本支配や内政干渉などを指す。19世紀後半には、それまでの「作って売る」産業資本の輸出を中心とした経済進出に替えて、相手国の企業、鉱山などを買い占める金融資本の輸出が中心となる。経済的な発展の遅れる地域を経済的のみならず、指定した産品を生産するように圧力をかけ、生産品や労働者の賃金などの低廉化を求め、現地の企業や鉱山を支配することで、政治的にも従属させようとする政策を取る。英国で「帝国主義」の呼称が始まり、ディズレーリ以降に定着化する。
帝国主義を生み出す流れ-
生産技術の発展という要因 
⓪コテージインダストリ(家内制手工業、江戸時代の職人。毛織物・日用雑貨)、マニュファクチュア(工場制手工業、通いの職人)から
①第一次産業革命(石炭燃料・動力は蒸気機関)の軽工業(木綿工業。紡績/繊維を紡ぎ太い糸を作る作業)を経て、
②第二次産業革命(1865年-1900年。石油と電力)で重工業へ。重工業は金がかかるから、個人や小さな企業ではできない。金も市場も資源も労働者も多く集める必要がある。製造ライン・自動車・鉄道は金がかかる。また、植民地に鉄道を敷けば、鉄や銅や錫などの資源を容易に港まで運べる。1886年、ヨーロッパとアメリカでホールとエルーが同時に製錬方法を発明したことで、軽く変形しやすいアルミニウムが多く使われるようになる。原料は鉱石のボーキサイトで、オーストラリア、ブラジル、ギニア、インドネシア、ベトナム、ジャマイカに多い。電気(発電、電話)もこの時代の産物である。
資本規模の変化という要因
個人資本から合名・合資・株式会社を経て、①価格協定などの(1.カルテルorトラストorコンツェルン)②吸収合併を繰り返し、その産業分野の独占をする(2.カルテルorトラストorコンツェルン)。アメリカではこれが多い。ロックフェラー家のスタンダード石油やモルガン家の金融、鉄鋼王のカーネギーなどが代表例だ③持ち株会社、コーポレーションなどの産業複合体である(3.カルテルorトラストorコンツェルン)。系列企業を持つ財閥のことも多い。
市民階級の変化という要因
①商売物を売買する商業市民から②物を作る産業市民を経て③金を動かす、預金・投資をする金融市民へ
産業資本(会社の内部留保)+銀行資本(預金が原資)=金融資本が成立する
場所の変化という要因
内陸より遅れていた都市化の波が移動し、石炭を大量に船で運べる便利な場所、港湾・入江・河川流域が発展する。
・自由競争から資本・生産の集中で独占資本が生まれ、帝国主義化をドイツに見たヒルファーディングは「金融資本論」(1910年)を著した。ボーア戦争/南アフリカ戦争の英国に見たホブソンは「帝国主義論」(1902年)で、一部の富裕層の利益欲求が帝国主義の本質と見なして、コブデンやブライトなどの自由貿易への回帰を主張した。資本主義の帰結が帝国主義と見たレーニンは「資本主義の最高の段階としての帝国主義/帝国主義論」(1916/1917年)で、民族解放の理論化、大戦の原因もこれだと言う。ローザ・ルクセンブルクは「資本蓄積論」(1913年)を著した。
植民地- 大きく分けて
A個人で勝手に行く移民、
B「国」家の政「策」=「国策」としての事業で集団で行く植民がある。
紀元前からフェニキア人やギリシア人やローマ人は植民をしていた。相手国の同意の上で行く場合は、国策であっても移民と言われることが一般的である。20世紀の日本人が、米国やブラジルへ行ったのは移民と言う。満洲へは、日本国内の各村に人数の割当をしてかき集めた上で送り出し、中国の同意がないので植民と言う。植民は旅行と違って、その土地に根を下ろして、己を「植」えて「民」になる。本国/母国とは関係を持ち続ける。主に農民が行く。出生国で失業して仕事がない、農家の二男・三男で家を継げないから農地もない、こういう人を国が送り出す。その土地を支配するために、自国の人間を増やそうと考えて送り出す場合もある。例えば、南アへの英国の植民、満州やパラオへの日本人の植民。犯罪者、前科者などを含む場合もあり、いづれにしても役立つ人間は本国に留め、本国で役に立たない人間を外に出すという考えがある。植民地は、フェニキア人やローマの時代には、単に植民をする先と言う意味だったが、次第に意味が変わる。計画的植民や資本輸出をして、①経済的にその土地を支配する、それが植民地になっていく。さらに、②政治支配もするようになる。つまり相手国に自治権がない。その国の国王を誰にするかも首相も大臣も議員もぜーんぶ支配している国が決める。①と②の段階に差はあるが、用語上の区別はなく、どちらも「植民地」と言う。②の場合は、日本領、ベルギー領などと言うこともある。「保護国」は相手国の一応の形式的同意を得て、外交権と軍事権を任される状態をいう。国境紛争などがあれば代わりに外交をして、攻撃されたら代わりに戦争をする。本社と支社の関係に似ている。「保護領」は保護国と違い、その土地に真っ当な政府が存在しないと一方的に決めつけた土地で、外交権と軍事権とを代行する。植民地の②の状態、保護国、保護領に対して、支配している側を「宗主国」と言う。「属国」は服属国のことである。外交権も軍事権もあるが、子分のように言いなりになる国である。条約などで決めているわけではない。貢物を毎年持参する、あなたは皇帝で私を周辺国の王に任命して下さってありがとう、こういうやりとりがある。親会社と子会社に似ている。形式的なもので、実際に任命権があるわけではなく、土地の支配者が箔を付けるために参る。足利尊氏も秀吉も「日本国王」として中国皇帝から任命されたが、天皇が別にいるので、実力で国王のようなものになっている。「漢奴倭国王」の金印もその印である。
住人から見ればマシな順に、独立国>属国>植民地①自治権有>保護国>保護領>植民地②
租借地(そしゃくち)とは、そこの土地を借りること。大抵は領事裁判権を認めさせる。例えば在日米軍基地≒租借地内で起こった事件に関しては日本人が殺されても、犯人/米国人は日本の法律で裁かれない。米国の法律で裁く。1995年以降は凶悪な犯罪に関しては日本側に引き渡す合意があるが、義務はない。租借地は植民地化のはじまりであり、主権国家は租借地を許さないのが現代の国際常識である。従って、在日米軍があり、軍人の犯罪を日本の裁判で裁けない現状を、「日本は米国の属国」と主張をする人もいる。司法だけでなく、行政権も立法権も及ばない場合は治外法権と言う。司法だけが及ばない状況の方が少ない。
移民問題~16世紀から18世紀の移民は,ヨーロッパから植民地への移住が主だ。19世紀、帝国主義段階になると人の移動が増える。鉄道や蒸気船が発明され輸送能力が高まったこと、産業革命の進展による工業化、アジアへの進出と植民地化により列強の資本が進出することで、インド・中南米と東南アジアに大農場/プランテーション、東南アジアとアフリカに鉱山と鉄道、中東に石油開発が生まれ、安価な人手が必要になるからだ。一方で市場の独占が進み、富裕層になる商人と地主以外はプランテーションで小作人になるか出稼ぎをするかを選ぶ。
例えば、米国には、ゴールドラッシュの労働者の食事や洗濯の世話、大陸横断鉄道の建設をするのは中国人が多い。ラテンアメリカへの移住は、日中露ポーランド、アイルランド、伊が多く、例えばブラジルには日系と伊系が多い。南アには英国植民地であるインドや中国からが多い。中国人は中東やシンガポール、タイ、マレーシアへ行くが、2タイプがいる。中国国籍を保有のままの(4.華僑or華人or苦力)は出稼ぎで故郷に送金、現地生まれや、東南アジアが独立したときに現地の国籍を取得したなどでもう中国国籍のない(5.華僑or華人or苦力)。同じようにインドからの出稼ぎ者は、印僑、インド系人という。これを機に東南アジアでは多民族化が進んだ。
2010年代のインドネシアの人口の3%、タイの10%、マレーシアの23%が華人。中印から各々4000万人が出稼ぎ、インドは英国の植民地へが多く、低カースト層やタミル人などが南アフリカ(鉱山)やマレーのプランテーション、他にシンガポール、ケニア、タンザニア、フィジーに行った。ミャンマーは移民の中でインド人が一番多い。19世紀末英国領インドに併合されたビルマ/ミャンマーにはヒンドゥー教徒やムスリムのインド系移民が流入、下層労働者として働き、ラカイン北西部に移民したムスリムは、下層労働者として土着化、いわゆるロヒンギャ族である、そして仏教徒との軋轢が生まれた。商人や下級官吏としての出国が多い。
中国は植民地化は関係なく、特に福建省、広東省、海南省からの(6.南洋華僑or北洋華僑or東洋華僑)が、近い東南アジアへ行く場合が多く、農園やマレーシアのスズ鉱山などの労働者、つまり(7.苦力or短力or長労)や、わずかに商人もいた。他に大陸横断鉄道の建設がある米国に移民が多い。1850年代以降のオーストラリアにおける金鉱発見も中国系移民の契機である。
大戦で荒廃したヨーロッパからの移民も20世紀には多い、また差別を受けて故国を離れたユダヤ人移民もいる。そして、19世紀にはイギリスをはじめとして欧米諸国で奴隷制が廃止されていったことも大きな要因となった。これにより,奴隷の代替となる安価な労働力の需要が高まり,労働力としての移民の動きが促進された。西欧北欧からは米国、東欧南欧は米国や南米に移民が多い。
1840年代から1850年代にかけては,移民が急増する。1840年代のジャガイモ飢饉を契機とした(8.アイルランドorギリシアorルーマニア)系移民、1848年革命の失敗を背景としたドイツ系移民が有名。ハワイには白人が流入して要職を占有し、外国人が島の3分の2以上の土地を所有するようになる。米、英、ハワイ系の対立を生む。1860年代後半にはサトウキビ労働者として日中から移民。一方、ハワイ系は疫病で減る。
19世紀末から20世紀初頭には、新移民と称される東欧・南欧の移民が増加する。イタリア・ポーランド・ロシアなど政治・経済の不安定を背景にした移民である。1905年IWW、世界産業労働組合/世界産業労働者同盟を東欧移民と未熟練者が結成し、闘争を呼びかける。恐らくギルドはないので、熟練かどうかの区別は曖昧。資格があるわけでもなさそうである。
南米で最後に奴隷制を廃止した(9.ブラジルorペルーorボリビア)では低賃金労働者が必要になりイタリアや1908年からは日本から移民が入る。主に農業で活躍する 大量のヨーロッパ移民の持ち込む自由な精神が雰囲気を変える、奴隷への温情的応対に替わったブラジル。
日本は当初米国のハワイや西海岸、20世紀にはブラジル、朝鮮半島、満洲に移民する。
移民は安価な労働力として工業化を支え経済的な寄与した一方で、同化せず、チャイナタウンやリトルイタリー、日本人街などを作る場合には、文化的な軋轢が生まれ、差別や対立にもつながった。他には米国ではアジア系移民が増加するにつれ職を奪われる、賃下げに巻き込まれるなどの経済的問題がある。アジア系への差別意識もあった。これらは黄禍論と称される。1882年の移民法では中国人の移民が制限された。1908年の日米紳士協定では、日本からの移民制限。手先が器用で野心のある日本人労働者から米人を保護する企図である。1908年のルート高平協定(米国はルート国務長官、日本は高平大使)では、米のハワイ併合とフィリピン支配再確認と、日本の満洲権益承認とカリフォルニア州への移民制限を認める。日本は、代わりに中国、満洲に移民していく。1924年、アメリカの排日移民法。
一定の期間が経過すると、発展を遂げる郵便など の通信手段と連関して、本国の民族主義的な資本家や知識人と連帯を強化するようになり、反帝国主義運動もするようになる。
解答  1.カルテル 2.トラスト 3.コンツェルン 4.華僑  5.華人
6.南洋華僑 7.苦力 8.アイルランド 9.ブラジル
補足知識:マレーシアは半島部とボルネオ島に大きく分けられるものの、マレーシアの半島西部にゴム農園、錫の鉱山が多い。錫は青銅器の原料として人類にはなじみがある。近代における錫は鉄板の表面にメッキとして塗るために使われた。つまりブリキである。硬くて密閉できる上に、錆に弱かった鉄が錆びることを防げるようになった。こうした利点があるので、南北戦争を契機に缶詰食品が普及したと言われている。また、おもちゃにも広く使われるようになった。満洲は当時の漢字。満州は常用漢字に指定されているので、一般的に戦後の参考書ではこちらが使われることが多かった。だが、厩戸皇子、マガリャンイスのように21世紀の歴史学会においては、現地の発音、当時の名称に近づける動きがある。従って、満洲と書くのが適切と余は思う。

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