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裸になる理由 草案について

父親51歳、母親38歳で誕生した私の家庭は、圧倒的に子離れが早かった。
母親に認められたかった、自分のことを知って認めて褒めて欲しかった。愛してもらった記憶はたくさんあるのだけど、もっと私の話を覚えて聞いて欲しかったみたいなふうに思っていたことを記憶している。

誰にも吐き出すことのない私の日常や気づきは、吐き出す先が紙だった。
毎日のように日記を書いて、小学生の頃は後ろ黒板に張り出した。
先生は読んでくれなかったけど、毎日きちんと読んでくれる男子がいたのを覚えてる。
(今になってすごく感謝を伝えたい)

どうしたら読んでもらえるか、わたしのことをわかってもらえるか、なるべく面白い文章で、なるべく面白いトピックで書こう。
それと、読みたくなる字で書こうと子供ながらに工夫した。
文字だけではみてもらえないなら、何これ!と思われるようなシールを貼ろう。など。

小学生の頃はそれで良かったのだけど、高校大学に上がるにあたって自分の話しする内容の平凡さに疲れてきた。みんなと同じように吹奏楽に入って、そこそこの高校で上の中くらいの学力。大学にはみんな行くから、ブランドで第一志望を決めて見事に落ち、別に英語が好きではなかったけど国際系の大学に滑り止めで進学した。これではみんな、わたしに興味なんて持たないだろう。
語ることなどない、高説を垂れるだけの経験のないわたしは、面白い話なら、もっとみんな聞いてくれるだろうと思うようになった。

ならば面白い経験が必要だ。
なんでも挑戦しよう。
人のやったことのないことをなるべく選ぼう。
家にお金がなかったし、家庭環境は絵に描けないくらい複雑だったけど
ある程度は平凡で平穏な人生だった。
ここから草むらを歩こうと思った。

真ん中の道を大腕を振って歩いているような人間は、面白いものなど作れない。そんな人間に向けられる興味や関心はそれほど強くない。
そう思ってきた。なるべく早く経験しようと、体力と時間を返上してきた。

書道、写真、アカペラ、お笑い、接客、人に会うことや、電車に乗ることでさえ、
それら全てがわたしのアウトプットの修行であり、インプットの大きな窓口だった。

ヌードはその方法の一つだと、今では認識している。
わたしなど、飛び道具がないと上がれないようなスペックの人間だ。
ヌードを通して、私の憤りや辛さや言いたいこと、でもうまく言語化できなくて自分の中に沈澱している感情を、カメラの前で残したい。
瞬きするたび言葉におさまらない感情の機微が溢れるかんじがした。それを上手に拾ってくれるカメラマンに感謝した。面白い、と思った。

感情の機微というのは言葉にしてしまうと簡単な感情になってしまうもので、たとえば
「セフレに捨てられて辛かった」
「自分のやりたい職業に就けなかった」
「もっと褒めて欲しかった」
「馬鹿にされてむかついた」

どうにもインスタントで、違う気がする。
言葉と感情の本当の間にある細かい粒子を、言葉にしないように、何かに残すために写真があっただけだ。

被写体として活動するにあたって
綺麗だねとか、良い身体だねとお言葉をいただいたり、
その身体を保つための努力みたいなものに言及されることは全く望んでいない。そもそも努力などしていない。

小学生の頃から少しずつ育ってきてしまった認められたさが、承認欲求(この言葉で包括できるようなものではない)のモンスターとして、わたしの輪郭を作っている。

女体は神秘、裸は美しい、と写真に関する人だけでなく色々な人々が言葉にする。そんなのは当たり前だ。
言葉がインスタントであるとか、方法でしかないように、私にとって裸は方法で、もっと中にある発想の媒介になるものが、わたしの裸である。
声や目線の動き、意図した息づかいや間となにも変わらないものである。

どうしてヌードをしているか?
私が写った写真からわかって欲しいというのは私の大変な我儘であるが、いまだに私も言語に落とし込めなくてモヤモヤしている。
いつかしっくりくる言葉を見つけたいなと思う。

はじめてカメラの前で裸になって、5年経ったので、
人がヌードをやる理由なんてなんでもいいだろと思いつつ言葉にしてみた。

読んでいただいた方、ありがとうございます。
みんな、どうして裸になるんだろうね。

裸になる理由 草案について
2024/02/10

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