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ひとにやさしく、もっとやさしく(そしてあんしんなせかい)

いつからそう考えるようになったのか覚えてないのだけれど、なにかにつけて、精神的自立と経済的自立というものを意識してしまう自分がいる。

「頼る」と「依存」にも、ちょっと細かいところがある。「頼る」ことはとてもいいことだと思っているし、大人だからこそ「頼る」ことができるのだとも思う。一方で「依存」は子どもっぽい行為だなと思っている。その差はなにかといえば、精神的自立がベースにあるかどうかだと思う。

大人になることは、なんでもできるようになることではなくて。自分はなにができて、なにができないのか。なにが好きで、なにが苦手なのか。そういうことをていねいに見つめてきた人が、少しずつ大人になっていく。年齢を重ねたからといって、大人になるわけじゃない。そして、自分にできないことは、得意な人に「頼る」ことができる。それは、誰かの不得手を自分の得意で助けることともつながっている。誰かとつながるために「頼る」は存在するのかもしれない。それができるようになると、とっても健全な大人だといえると思う。

経済的自立にもすごく意識があって、このふたつは基本的には不可分なものだと思ってる。「衣食足りて礼節を知る」じゃないけど、経済的に不安定な、もしくは依存的な状態で精神的に自立できるほど、人間は強くない。ごくまれに経済の自立と精神の自立が分離している人もいる。経済的に不安定であっても、自分が生きていくことに大きな不安のない人がいるから。実際にそれは正しくて、お金がないだけでは人は死なない。もちろん、それはとても困難だからこそ、ごくまれにしかそういう状態でいられる人はいないのだけれど。

と、ここまで読んだ人はお気づきかもしれませんが、この領域に関して、わたしはかなりメンドくさい人だと思う(笑)。わかりやすくいうと、素直にごはんをおごってもらえない(もらいたくない)、メンドくさい女です(笑)。

おごってくれるって言ってるんだからいいじゃない、というのもわかる。自分より目上の人のプライドもあるじゃない、というのもわかる。男性にいい格好させてあげてもいいじゃない、というのもわかるんだよー。でも、なんだかこう、モヤモヤとするものがあるのです。ああ、自分でもメンドくさいと思う(笑)。

そして、なぜ自分はここにこだわるんだろうと思った時、気づいてしまったのです。尊敬する人や、好きな人に嫌われたくないだけなんだということに。ひとつ甘えてしまったら、すぐに精神的にも経済的にも依存してしまうような弱さをわたしは内包しているから。そして、その先に大事な人が自分を置いていってしまうシーンが頭に浮かぶのです。おそらく、見捨てられ不安のかけらなんだろうな。そんな自分の襟を正すように、いつでも精神的・経済的自立をしていようって言い聞かせているんだなーと。

でもね、もう、そんなにがんばらなくてもいいかなと、ふと思った。そんなに肩に力を入れなくても、だいじょうぶだよと。もう少し力を抜いても、私はこれからも自分の足で立っていけるんじゃないかなと、根拠もなく思ったりした。

そして、いま、なんらかの理由があって、自立的でない状況のひとに厳しい視線を送る必要もないのだと思う。というか、そろそろそれをやめたいんだな。わたし自身が、誰も置いていかない人になればいいんだよ。結局、なにひとつ依存してない人間なんていないんだから。ときに誰かに依存して、誰かに依存されて、でも、たのしくあかるく生きてたら十分じゃないの。それはとても、安心な世界だよね。

と思う、休日の午後です。暑くもなく寒くもなく、いい季節だねー◎

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