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社会心理学は社会に提言できるか(2)

第2弾です
2021年8月開催の日本社会心理学会第62回大会の「新型コロナウィルス1・2」セッションでの質問への回答第2弾です。質問全文はこちら、他の回答はこちらから御覧ください。

現状の社会心理学から、新型コロナ対策にかんして何かしらの提言(社会的提言、政策提言)などをすることは、どの程度まで可能/適切と考えますか。Covid-19パンデミックに対して、社会科学の知見を積極的に発信するべきという立場と (Van Bavel et al., 2020など)、それらの知見はまだ頑健性や一般化可能性が低く、慎重であるべきという立場があるように思われます(IJzerman et al., 2020など)。新型コロナに関係する研究をされている立場から、ご意見をいただければ幸いです。

一言 英文さん (関西学院大学文学部)

感染症症状に対する個人的・関係的幸福の効果
―パンデミック下の日米比較を通して―

一言 英文 関西学院大学

回答

このたびは「新型コロナ1・2」という特別なセッションで発表させていただきました。ご質問の問題は、意見の分かれる重要な問題だと認識しております。個人的には(自戒を込めて)、2020以降に観察されるコロナ関連の心理行動的現象が、本当にコロナ禍の影響を受けたものなのであるか、ある程度明確にできるデザインを敷いている知見か否かが重要な分かれ目になるかと思っています。特に、2020年1月前までのデータとの時系列比較や、ある程度他の条件が類似しながら感染の被害/脅威の高い地域と低い地域との比較など、現実的な提言に必要な条件になるかと思っています。とはいえ、社会的な対応の違い、遅れ、変異株の出現に加え、元々の医療体制や疫学的対応の差など、時系列にせよ社会比較にせよ、コロナ禍からむ交絡変数をどのように制御するか、このあたりに知見のクオリティが出てくるかと思います。また、なにより、それらの知見を利用する一般社会が非常にセンシティブな状態であることに配慮し、これらの知見の応用や還元を戦略化する方針など、社会心理学として検討していく必要もあるかと思っています。お答えになっていれば幸いです。

平石の返信

回答ありがとうございます。

因果関係を特定するために研究デザインを丁寧に設計する必要があるというご意見と受け取りました。仰ることには全く賛成です。(個人的には、因果関係を特定するためにクリアする必要のある前提が、いかにも超えがたい壁のように思えてしまっている昨今ではありますが。)

今大会で私たちが報告している研究について言えば、残念ながら因果を特定しうるデザインにはなっておらず、あくまでパンデミック下での人々の意見のスナップショットに過ぎないと個人的には思っています。それゆえ、その自覚を持った上で発信していかねばならないと思っています(そうした限界があっても、スナップショットを撮っておくことに一定の価値があるのではないかと思ってデータを取った、という感じです)。

有難うございました。

楠見 孝さん (京都大学大学院教育学研究科)

新型コロナウイルス流行前へのなつかしさとなつかしさ特性:
Personal Inventory of Nostalgic Experiences日本版(PINE-J)の開発と適用

楠見 孝 京都大学

回答

私は,現状の社会心理学から、新型コロナ対策にかんして何かしらの提言をすべきだと考えています。知見の頑健性や一般化可能性を高めるために,国際共同研究や複数回の実施,追試など進めては思います。

平石の返信

ご回答いただき有難うございます。

頑健性や一般化可能性が担保された知見なのか、(たとえどんなに興味深く、また直感と合っていたとしても)まだそのような状況ではない知見なのかが、非専門家にも評価しやすい形で示された上で、さまざまな提言に用いられるのが理想ではないかと、個人的には思っております。

ご回答ありがとうございました。

辻 竜平さん (近畿大学総合社会学部)

新型コロナ禍における外出・対人接触の規定因とその変化:
文化的自己観と職業に着目して

辻 竜平 近畿大学

回答
これは,非常に難しい問であることは確かです.

私自身は,社会学の教育を主として受けてきましたので,そういうバイアスがあることを最初に申し上げておきたいと思います.

平石さんからの問をもっと一般化すると,「ある科学的知見をもとにして何らかの提言をすべきか,あるいは,それができるのか」ということになるかと思います.

ここには,いくつかの論点があります.まず,当該学問が科学なのか,という点です.これには,少なくとも社会心理学においては,さまざまな意見があることは承知で,私は答えを出すつもりはありませんが,しかし,それが真似事かどうかはさておき,データを取って分析をするということをしているので,一応,科学であるというふうに考えて先に進みます.

次に,何らかの提言をすべきかどうかですが,これについては,私の師である髙坂健次先生が,「ミドルマンのすすめ」(髙坂,2000)という論考でいろいろと論じています.ちょっと長いですが,まとめておきます.

絡んでいる要因は多く,調査もままならない.時間と費用は莫大なのに,答えは今すぐに出すことを求められている.[そこで鳥越(1999)が言うには,]「科学的論拠が十全に示せないのにもかかわらず,政策が必要なのである.」仕方なく,「1割の科学的論拠,9割の科学的推論ということも珍しくない」状況で,定言的役割を果たしていくこともあるのだそうだ.科学的推論といえば聞こえはいいが,要するに経験的な勘みたいなものである.[中略]この経験的勘に頼って「エイ,ヤー」で結論めいたことをアドバイスするというのが,ラザーズフェルド(1967)の言う"gap-leap"[知識から決定へ,もしくは知識から行動へのギャップを飛び越えること]なのであろう.

では,その飛び越えをするのはだれなのか? 研究者が思いつくこともあるかもしれないし,研究者に助言を求めたクライアントかもしれないし,最終的には政治なのかもしれない.

社会学者による調査研究(=知識)から実際の意思決定(行動)への"gap-leap"において生じる「選択」には,3つの種類があるとラザーズフェルドは考えている.

1)一般的戦略の選択:[ある知識があり,そこから考えられる選択肢が複数あるとき,]限られた資源をたとえば行政が予算配分するとなると,おのずからいずれかの戦略に力を入れるべきかを決断しなくてはならない.

2)ターゲットとなる対象者とコミュニケーション・チャンネルの選択:PRにつとめるべきはどの対象に向かってか.対象者や層の絞りかたによって,[中略]PRのための媒体が異なってくる.

3)一般的概念の明確化:たとえば「緊急事態」という概念は,一般的概念である.それを[どの人々にとっての,どういう状態か,というふうに]明確化する.

ラザーズフェルドは,こうした当面3つの選択をする人間のことを「ミドルマン」と呼んでいる.[中略]調査研究を重ねることによって解決がつくかもしれない.しかし,[中略]時間的に待てないかもしれない.ここには,「創造的な想像力」が必要だとラザーズフェルドは言う(1967: xxviii).どこが創造的な営みかと言うと,「事実に関する知識を操作的な手続きに変換するための,制度的,技術的,あるいは象徴的な工夫(仕掛け)を思い付く」必要があるからだ.こうした工夫(仕掛け)を思い付くことは,自動的なルーティンワークでできることではないと言いたいのであろう.

「では,この想像力を提供するのは誰の責任だろうか? 社会科学の役割が大きく広がっていくにつれて,新しい職業が生まれるかもしれない.それは,第3の力であり,社会学者とクライアントの仲をとりもつミドルマンである.彼は社会科学者を理解する能力をもっており,スポンサーの実践的な問題についても通暁している.しかし,最も大切なことは,彼が自分に手渡された知識を使って,その知識から,社会学者やクライアントよりは多くの結論を導き出す能力をもっており,できることならそのための訓練を受けていることである.」

では,「ミドルマン」の課題は何だろうか? 髙坂は次のように考えている.

1)クライアントとの橋渡し:「ミドルマン」は,クライアントの抱えている問題をよく知らなくてはいけない.[中略]「ミドルマン」は,ニーズの掘り起こしを含めて,ニーズを正確に把握しなくてはならない.[中略]クライアントの現場からは,社会学者がとんちんかんな答えしか返してこないとか非協力だという不満とも揶揄ともとれる声を聞かされることがあるが,その原因の大半はクライアントの問題を正確に社会学者が把握し切れていないことによるように思われる.行政がクライアントになっている場合,行政にとっての施策可能範囲とでも呼べるべきものが存在している.[中略]その可能範囲を超えたアドバイスは,どれほどその内容がすぐれたものであっても,現実のダイナミックスからすれば役に立たない.[中略]社会学者による研究が完了したとしよう.社会学者が提示してきたものを,クライアントの要求に合うように具体化しなくてはならない."gap-leap"と呼ばれた営みがそれである.

2)社会学者との橋渡し:「ミドルマン」がクライアントの問題を社会学的問題に翻訳できるためには,[中略]社会学者以上の社会学的センスが必要である.[そのためには]社会学者中では[中略]分業が行われていて当然の事柄であっても,「ミドルマン」はそれらの全体を知っていなければならない.[中略][また,]利用できる社会学者についての情報をもっておく必要がある.どのような問題ならどの社会学者にまわすかを的確に判断できるだけの情報は必要である.[中略]このように考えてくると,クライアントが「ミドルマン」を兼務することは事実上無理のように思われる.むろん,社会学者が「ミドルマン」を兼務することもたやすいことではないけれども,現実にはそれが唯一可能な途であるように思われる.

以上の論考をもとに,COVID-19という文脈の中で,われわれが何か提言らしきものを出せるのだろうか? われわれは,研究者であるとともに,COVID-19の直接的な影響(被害)を受ける当事者でもある.それだけに,この状況が放っておけず,自分たちの研究結果をもとにして,何らかの施策を提言したいという気持ちになるのは,ある意味自然なことでもあるように思われる.しかし,本当に,自分自身がそういう能力を持っているのかどうかについては,自問するしかないだろう.皆が行政に対して提言することはできないかもしれない.しかし,特定の対象者に対してなら,想像力を働かせて何か提言することはできるかもしれない.

私は,やや雑な概念ではあるが,理学的指向と工学的指向というものを分けて考えるべきかなと思っている.簡単に言えば,自然科学的な指向が理学的指向,自然科学の成果を応用してものや制度を作ろうとする指向が工学的指向である.大学の学部では,(理工学部もあるが,)理学部と工学部は分かれていることが多い.しかし,社会科学に含まれる学問領域の場合,理学的指向をもっていても工学的指向をもっていても,同じ学問領域に押し込まれている.これが,研究成果を社会に還元するといった考え方に行き着きやすい理由の一つなのかなと思っている.ただ,個々の研究者がどちらに向いているかは,それぞれなのかなと思っている.多くの社会心理学者は,実験法や調査法などの訓練は受けているが,それを実践に応用するための訓練は受けていないことが多いだろう.本当にそんな状態で,まともな提言ができるのだろうか? それは無理だと思う人もいるだろうし,自分はできる,少なくともこういう範囲ではできるというと思う人もいるだろう.というわけで,できる人ができる範囲でやればよい,ということなのではないだろうか.

しかし,さらに考えるべきことがあると思う.それは,東日本大震災でもCOVID-19でもそうだし,1つ1つの出来事が実は全てそうなのだが,それぞれの出来事の独自性(ユニークネス)があると思う.

私は,東日本大震災の直後,『中越地震被災地研究からの提言―未来の被災地のために』というブックレットを出版したが,自己反省的に言えば,地震によって被害を受けた中越地方の農村の研究から,津波によって被害を受けた農村あるいは都市に対して,本当にまともな提言ができる範囲は限られていることにすぐに気づいた.まして,原発事故に対する提言などできはしないと.

では,未来の中山間地の被災地に対しては,何か提言できたと言えるだろうか? これも実は自信を持ってYesとは言いがたい.なぜなら,物理的に被害の状況や規模が違っているかもしれないし,将来どこかで地震災害が起こったとき,過去の経験をふまえて,行政の出動は改善されているかもしれない.住民組織のあり方も2004年当時とは違っているかもしれない.だから,その地震は,それ自体の独自性があると考えられる.そうであれば,彼らが直面するであろう問題は,全くではないかもしれないが,多少とも違ったものである可能性がある.(辻,2018)

そういったことを考えると,COVID-19の渦中にあるわれわれが,未来のパンデミックに対して提言したとしても,それが次回のパンデミックの際にどのくらい役立つものになるかは,全くではないかもしれないが,よくわからない.「歴史は繰り返す」などと言われる.たしかにパンデミックは数十年単位でずっと起こり続けているかもしれない.しかし,その都度,その社会で問題になることや解決すべき課題は,細かいレベルに入り込めば入り込むほど,違っているのではないだろうか.

では,現在のCOVID-19に対してなら,それ自体を生きる人々(われわれ自身も含む)に対して,われわれは何か提言できるだろうか? これも,できることとできないことがあるだろう.第1次緊急事態宣言では,8割とはいかなかったものの,街は本当に静まりかえっていた.しかし,それ以降は,次第に人手は抑制されなくなり,現在の第5波における緊急事態宣言では,もはやほとんど効果はないのではないかとも思える.そこでたとえば,第1次緊急事態宣言中に,人々がどういう心理状態にあって,あれだけきちんと人手が抑制できたかを分析できたとしても,現状を改善するために,どういった提言ができるだろうか? あの頃のような心持ちになれ!とでも言うのだろうか? それは,あまりにもナイーブ過ぎるように思われる.では,どういう仕掛けを作ればよいのだろうか? ここで,はて?と引っかかってしまう人が多いのではないだろうか? 少なくとも私は,このあたりで自分の限界を知るのである.自分も提言してみたいとは思うが,ミドルマンたる能力に乏しい.やれる人にやってほしいと思う.いずれにせよ,社会心理学者全員にミドルマンの役割を担わせることは,単純に無理かなという気がしている.
提言? やれる人がやればよい.やっちゃいけないとは言わないし,本当にやれるのかとも問わないし,やって意味があるのかなんてもっとわからない.しかし,誰もができることではないと思う.少なくとも自分は,10年前の自分よりは,提言できるかと問われると自信を失っている.せいぜい,誰かから提言されたことや政府・地方自治体の政策について,ツイッターで,そりゃないやろとつぶやくくらいかな.

引用文献:
髙坂健次,2000,「ミドルマンのすすめ:「役に立つ」社会学・ノート(1)」『関西学院大学社会学部紀要』87: 197-206.

Lazarsfeld, P. F., Sewell, W., & Wilensky, H. L., 1967, "Introduction," in Lazarsfeld. P. F. et al. (eds), The Use of Sociology, New York: Basic Books.

鳥越皓之,1999,『環境社会学』放送大学教育振興会.

辻竜平,2018,「災害からの復旧・復興と地域コミュニティ:新潟県中越地震の事例から」『ソーシャル・キャピタルと社会:社会学における研究のフロンティア』ミネルヴァ書房.

辻竜平,2011,『中越地震被災地研究からの提言―未来の被災地のために』ハーベスト社.

追記

(今,明け方で,早く寝たいので,さらに雑になりますが,)上で触れていない問題で,まだ重要な問題がいくつかあります.思い付いたものを徐々に追記していきます.

1.誰にとっての(誰に対しての)提言なのか,という問題:すなわち,クライアントに対してよい解決策を提言し,それがうまく当たったとしても,それが他者に対して不利益を与える可能性がある提言だった場合,その他者に対しておもんぱかることは必要ではないのか? という問題.

たとえば,外出を避けるように求めることが,飲食店など外出を前提として成立している職業に就いている人たちに対して不利益を与えることになるが,それをどのように適切に評価し,対策を講じるかという問題.

2.上の1とも関連しますが,パンデミックというのは,全世界のほとんど全ての人々にとって望ましくない状況であり,それを解決することは,全体の利益になります.その意味で人々が同じ方向に向かっていける問題と言えます.しかし,他の多くの社会問題は,ある人々にとっては望ましくなくても,現状で利益を享受している人々にとっては変化は望ましくないものかもしれません.パレート改善的に全体の利益を高められるのであれよいですが,そういうことが望めるケースは非常にレアでしょう.いったい,どういう立場に与して問題を解決しようとしているのかということは,常に自問しなければならないことでしょう.

平石の返信
回答ありがとうございます。

「ミドルマン」の話にはうなずける所が多くありました。自分について言えば、そうした役割を引き受けるのは(性格も含めた)能力的に、難しいと溜息をつかざるを得ないところです。

それでは研究者として自分ができることは何かと言えば「1割の科学的論拠,9割の科学的推論ということも珍しくない」状況があるならば、A)科学的論拠が占める割合を高める、B)手元にある科学的論拠は1割でしかないことをきちんと伝える、という2点なのかなと思っています。

Aについては真面目に地道に研究を続けるしく、これは多くの社会心理学者も取り組んでいると思います。Bも多くの社会心理学者は意識していることと思いますが、知見を社会に還元する際には、もっとシステマティックかつ非専門家にも分かりやすい形で伝える仕組みが必要なのではないかと思っています。

また、ユニークネスにかんする議論、誰に対しての提言なのか、どういう立場からの提言なのかという議論、いずれも重要かつ難しい問題であることを、改めて気付かされました。有難うございました。

第2弾はここまでとします。明日の更新をお待ち下さい。


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