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デブオタと追慕という名の歌姫 #11



第4話 それぞれに見出したもの ④


 行き当たりばったりここに極まる。当然のことながら彼はガマの油のような汗をかいて苦悶していた。

「おおおお落ち着け。確か、『ドリームアイドル・ライブステージ』にはオーディション以外にもプロデビューするイベントとかあったはずだ。ええと……」

 情けなくズルズル鼻をすすってブツブツ言いながら傘を首に挟むと、彼は空いた手でタブレットPCをせわしく操作し始めた。
 無論、こんな有様だから自分を見つめるエメルの瞳にいじらしい想いが宿っていることなど到底思い及ぶはずがなく……

「と、飛び込み営業か。コミュ障のオレ様が出来っこない方法じゃねえか……うう、これしかないのか、他に……他に手段は……」

 頭を振り振り、タブレットPCを相手に無い知恵を懸命に振り絞る。
 彼の頭の中はエメルをプロ歌手にする為の手立てをああでもないこうでもない、と考えるだけでいっぱいいっぱいだった。

「くそ、よりによってビジネスコミュかよ、一番オレ様が駄目な奴じゃんか……」

 デブオタはガックリとうなだれた。
 同じオタク同士のコミュニケーションなら慣れたものだったが、社会的な常識や礼儀を弁えた一般人とのコミュニケーション……となると話が違ってくる。
 ましてや、企業が相手になると敷居が恐ろしく高くなる。礼儀はもちろんのこと、話し方から容姿、人間性、持ちかけるビジネスの内容まで厳しく見られるのだ。リアンゼルのように遠慮も礼儀も無用な相手と戦うのとは次元が違う。
 外見はさておき、ビジネス的なマナーも交渉術も、彼は何一つ持ち合わせていなかった。
 だが、エメルを必ずプロの歌手にしてやると約束したのは自分なのだ、と彼は思い起こさざるを得なかった。
 それも、彼女にとって一番大切な母親に誓わせて。
 九ヶ月。彼女はデブオタを信じて懸命にレッスンを重ね、オーディションを受け、ここまで付いて来た。ここで自分が逃げる訳にはいかない。
 大声の特訓で目隠しをして通りを渡った時のあの勇気を思い出せ! と、覚悟を決めたデブオタは握りコブシに力を込めて叫んだ。

「ここまで来たからにゃもうやるっきゃねえ。ええい、腹はくくったぜ!」

 そして……

「お待たせ。では次の作戦を説明する」

 翌日、公園でいつもの練習メニューを終えて休憩した後、デブオタはベンチに招き寄せるとテーブルの上にスタンドを置き、タブレットPCを立てた。
 昨日の情けない苦悩などまるでなかったかのような、自信満々の姿である。

「それにしても、こんなところで奴にまたお目にかかるとはオレ様も思わなかったぜ。フヒヒッ」
「奴?」
「まぁ、まずはこれを見てくれ」

 デブオタはあらかじめブックマークしておいた動画サイトを開き、エメルは覗き込んだ。

「I do not choose the decided way. I go the wasteland. For freedom...」
(決められた道など選びはしないの。私は行く。自由を求め、ただ一人荒野へ……)

 撮影スタジオらしい部屋の中で、煌びやかな衣装を身に纏った一人の少女が歌っている。
 手にしたエレキギターはまるで銃器のようだった。
 荒々しく弾く嵐のような音の弾丸に合わせ、浴びせられる光などものともせず、カメラに向かって猛々しく歌っている。
 彼女の姿には見覚えがあった。
 デブオタと出会う前までは、いじけて泣くしかなかった自分をさんざん虐め抜いた相手なのだ。忘れるはずがない。
 公園のトイレの傍の宣戦布告から九ヶ月。いつしかその罵声も聞かなくなり、姿を見かけなくなっていた驕傲の歌姫。

「リアンゼル……」
「どうやらコイツ、本気でエメルと戦うつもりだな」

 しばらく見ないうちに、リアンゼルはずっと容姿も洗練され、歌声も華麗になっていた。高い音程すら延びのある鋭い声で苦もなく歌っている。
 サファイアのような瞳や輝くような金髪と相まって、画面の中の彼女はカリスマのようなオーラをまとって煌いているように見えた。
 息を呑んで見ていたエメルは、ふと我が身を顧みた。
 自分は未だにオーディションに一度も合格していない。
 気がついて摘んだ自分の髪も、彼女の輝くような金髪とは比べ物にならない地味な黒髪だった。自分が今着ているのも彼女の煌びやかな衣装と比べるのも恥ずかしい、色褪せてくたびれたジャージ。
エメルは、彼女に比べて自分が余りにもみすぼらしく思えて俯いた。
 泥の中を這いずるような自分の労苦と成長に対し、彼女は軽やかに成長し遥か先にいるように思える。
 だが。
 そんな彼女の耳に、デブオタの信じられないような言葉が聞こえたのだった。

「ふーん、確かに上手くなってるなコイツ。でも今のエメルなら勝てないことねえや」

 エメルが驚いてデブオタに顔を向けると、むしろデブオタの方が驚いたようにエメルを見返した。

「何だ。オレ様ヘンなこと言ったか?」
「デイブ。い、今……勝てるって言わなかった?」
「ああ。勝てないことないだろ? 九ヶ月前のエメルならともかく」
「私が?」
「当たり前だろ。ん? まさか、エメルはオレ様がアイツと喧嘩してたからって、歌で対決するのもオレ様だとか思ってたのかよ!」

 そう言われて、エメルは思わず想像してしまった。
 二度目のオーディションで彼が演じた半裸のバックダンサー。そんな姿のデブオタがリアンゼルと対峙する様子を頭に思い浮かべ、エメルは思わず噴き出してしまった。

「思ってません! 違うわよ!」
「だよな。……ったく驚かせるんじゃねえよ」
「歌うのは私なのよね。わかってます。ええ、さすがにそれはわかってますとも」

「当ったり前のコンチキよ」と胸を撫で下ろしたデブオタに、エメルは苦笑したが「でも、リアンゼルに比べたら私、ずっと負けてると思う」と下を向いた。

「……負けてるところはどこだと思う?」
「私、まだオーディションに一度も受かってないもの」
「アイツもまだ一度も受かってない。デビューしたって話も聞かねえな。この動画も彼女のプロダクションが作った売り込み用だぜ」
「歌、リアンゼルの方が上手くない?」
「声が鋭いし、高音もオペラ歌手みたいだな。でも、そういう声質ってことは、エメルの透明感のある歌声は、コイツには出来ない」
「私は黒髪で、彼女みたいにキラキラ光る金髪に比べたら全然見栄えなんてしないし……」
「コイツの金髪はライトが当たって派手に見えているだけだ。エメルの綺麗な髪はお母さん譲りだったよな。艶があるぶん、金髪よりよっぽど品があるぞ」
「でもリアンゼルのギターみたいな技は……私、特技も何にもないし」
「エメル、コイツの動きを見てみろよ。ほとんど棒立ちだぜ。エメルだったら得意のダンスステップが出来るのに。今までさんざん鍛えてきたよな。向こうが弾き語りで歌うなら、こっちは踊りながら歌える」
「……」
「どこが負けてるんだ? 何ひとつ負けてねえじゃねえか」

 デブオタにひとつひとつ言われているうちに、エメルの内にわだかまっていた劣等感はひとつずつ霧のように消えてしまった。

「あ、あれ? ……言われて見たらそうなのかな、私」
「エメル、自信持てよ」

 デブオタはおもむろに携帯電話を取り出すと、カメラのスイッチを入れ「ピピッ……カシャッ」という音と共にエメルを撮影した。

「こっち来て見てみな」

 言われるままにデブオタの指し示す携帯を見ると、そこには分割した画面にそれぞれ二人の少女が映っていた。
 一人は、ショートカットの黒髪をした小太りの少女だった。今にも泣き出しそうな顔で懸命に引き攣ったような笑みを浮かべている。
 そして、もう一人はほっそりとなって綺麗に整った顔にキョトンとした表情を浮かべ、長く伸びた黒髪を揺らしていた。
 二人は同じ「架橋エメル」という名前の少女だった。体型も髪の長さも顔の作りも別人に近いほど変わっていたが、二人の決定的な違いはその瞳の輝きだった。
 トルコ石のようなターコイズグリーンの瞳は変わらない。
 しかし、長い髪の少女のそれから卑屈さは消え、信念と今までの努力に裏打ちされた強い意思の輝きが宿っている。

「この二人、別人のように見えるけど実は同一人物なんだぜ」
「……」
「エメル、お前は必ずスターになれる。オレ様がそうしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」

 力強い言葉が再びエメルの心に自信を与えてくれる。涙が出そうになった。

「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」

 うなずいたエメルの髪をくしゃくしゃにしてデブオタは笑った。

「さて、そんなエメルをコイツみたいなミュージッククリップで売り込む、それが今回の作戦だ」
「ええっ!?」
「エメル、お前はまだ自覚がないんだろうけど、もうそんなレベルなんだ」
「そ、そうなんだ……」
「おう。アイツ以上の凄い奴を作ってやる。売り込みの営業は任せとけ。話なんかすぐに決まってプロデビューだ。フヒヒッ」

 半ばぼう然となったエメルへニヤリと笑うとデブオタはタブレットPCを操作し、画面を向けてよこした。
 そこに映っていたのは……。
 いつもは、オーディション用の課題楽曲の振り付けをデブオタが考え、バーチャルアイドルに踊らせている。それを見て真似しながらエメルは踊り、振り付けをマスターしていた。例のアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードを利用した方法である。
 登場するアイドル達は総勢十人ほどで、皆、独特の髪型と衣装にそれぞれ特徴がある。彼女たちは今ではエメルにもすっかり顔なじみになっていた。
 しかし今、画面の中で「フラッシュダンス」の「What a Feeling」に合わせて踊っているのは初めて見る少女だった。
 彼らより少し背が低く、長く美しい黒髪を靡かせ、緑がかった瞳を挑戦的に光らせて可憐に歌い、踊っている……その姿にエメルは思わず大声を上げた。

「ああっ! 私が……私がいる!」

 それはエメルだった。エメル自身がアニメキャラ風のバーチャルアイドルになっていた。
 画面の中のエメルは銀ラメの入った黒い衣装に身を包み、色を変えて発光するステージの上で華麗に踊っている。肩にまとったショールから銀の光を振りまいて……。
 歌声に合わせて唇も動いているので、まるでエメルがアイリーン・キャラになりきって歌っているように見えた。

「す、凄い。デイブ、私をどうやって作ったの?」
「ドュフフフフ……このシャドー・エメルはMMDといってな、3DのCGモデルを作るソフトウェアで作ったんだ。これがプロモーション用の秘密兵器だ。このステージに本物のエメルを撮影して合成し、シャドーエメルとデュエットダンスさせてミュージッククリップを作るって寸法よ」

 声も出ない様子のエメルを見て、デブオタは「唐変木のイギリス人どももこの演出には刮目せざるを得まい。フヒヒッ……彼奴ら、日本のオタ文化のテクノロジーにさぞや度肝を抜くだろうて」と不敵に笑った。

「後はプロモーション用の楽曲をどうするかだな。オリジナルもいいが、そうなると誰か有名な作曲家に依頼しないとな。それと売り込み先をどこにするか考えとかないと……」

 鼻息も荒く、顎に手を当てて嬉しそうに悩んでいたデブオタは、ふと、驚愕の眼で自分を見上げるエメルに気がつくと「どうだ、オレ様って凄いだろ!」とコブシで胸を叩いた。
 エメルはうなずき、デブオタはそれからしばらく曲のイメージや衣装のデザインなどを語ったが、正直彼女にはデブオタの言うこだわりや美的センスは余り理解出来なかった。
 そんなことよりも顔を輝かせて熱く語っている彼にエメルは半ば陶然となっていた。
 脂ぎったその横顔は、お世辞にもハンサムとは云えない。
 だが、そこにはひたむきに夢を追う者だけが持つ美しい情熱が、まるで眼に見えそうなくらい溢れていた。
 エメルの心は、どうしようもなく彼へ彼へと惹き付けられてゆく。
 ところが、調子に乗ったデブオタは『ドリームアイドル・ライブステージ』に登場するアイドルの少女達の自慢を始めた。

「今までエメルに振り付けのモデルをしていた娘も、みんなオレ様がプロデューサーとしてSランクまで育て上げたんだぜ」
「へえ」
「最初にエメルに初心者向けのダンスをレクチャーした娘がいるだろ? ほら、青い髪のツインテールのこの娘」
「うん」
「レナレナは我侭でレッスンをさぼったり、ストレス解消でお菓子を食べ過ぎてダンスのレベルが落ちたり結構手がかかったぜ。でも根は素直で優しい娘なんだ」
「そうなんだ」

 それまでうっとりしていたエメルの表情が、だんだん微妙に変わり始めた。

「エメルと同じ黒髪を結い上げている和服の娘は楓って名前なんだ。茶道を嗜んでいるし立ち振る舞いが清楚だから手の仕草、小物を使ったポージングや座りのポージングとかをエメルに教える時の先生にしたんだ」
「え、ええ。色々教わったわ」
「おっとりしてほんわかしたカンジだろ?」
「そうね、確かにそんなカンジだったけど……」

 眼を輝かせ、画面の中の少女達を指差して自慢するデブオタは嬉しそうだった。
 だが、一方のエメルは頬を膨らませ、顔には次第に不快そうな表情が現われ始めた。
 それでもデブオタは気がつかない。

「この背が高くてスラッとした娘がアーヤ。元モデルだからウォーキングやポージングを教える時のモデルにしたんだ。彼女のおかげでエメルの歩き方もずいぶん綺麗になったよなぁ」
「……うん」
「そうそう、この娘……るるなは特撮ヒロインから転向した異色のアイドルなんだ。だからアクション色の強いダンスが得意でなあ。でもいい娘なんだ。エメルもさんざん鍛えられただろ?」
「……」

 不快を通り越したエメルのこめかみに、とうとううっすらと青筋が立ち始めた。

「みんないい娘なんだ」
「ふぅん」

 トイレの傍で虐められメソメソ泣いていたかつての面影などどこへやら、何気ない返事とは裏腹に、エメルはみんな殺してやりたいと言わんばかりの形相で画面を睨みつけた。

「ああ、本当に実在する娘だったら、エメルといい友達になれたろうにな。どんなにいい娘でも、みんな画面の中の住人だもんなぁ」

 そう言ってデブオタが残念そうにため息をついた時、エメルはようやく「あ、そう言えばみんな架空の女の子なんだ」と、気がついた。
 般若のような顔から憑き物でも落ちたようにいつもの顔に戻ってホッとため息をつく。

「ねえ、デイブ。ところでこの黒髪のエメルって娘は?」
「お、おう、その娘は……」

 ちょっと間が空いた。デブオタは鼻の頭を掻いて少し考え込んだ。
 それから、空を見上げて照れくさそうに笑いながら言った。

「この娘たちの中では一番手がかかったなぁ。でも、今ではこの娘たちの誰よりも魅力がある。綺麗になったし歌も上手になった。もうすぐスターになるこの娘がオレ様の一番の自慢だ」

 エメルはパアッと顔を輝かせて頷いた。
 よほど嬉しかったのだろう、蕩けそうな笑顔を両手でペタペタ触っては「エヘヘ」と、照れてしまった。そうして何度も「一番、一番……私がデイブの一番」と口の中でつぶやいた。

「ふー、何か汗かいちゃったな」

 結局、最後まで何も気がつかないまま「とりあえず明日から撮影に入るから、そのつもりでな」と締めくくったデブオタは、冷たい冬の風に火照った顔を晒して「おお、いい風だ」と眼を細めた。

「デイブ」
「んん?」

 風に吹かれて気持ちよさそうにしているデブオタに、エメルは籐かごを差し出した。

「お腹空いたでしょう? またランチを作ってきたの。食べて。紅茶もあるわ」
「おお、そりゃありがてえ。ちょうど喉も渇いてたしな。お腹もペコペコだ」

 眼を輝かせたデブオタの前で公園のテーブルにクロスを広げると、エメルはいそいそと紙皿にサンドウィッチを並べ、水筒からカップに紅茶を注いだ。

「いっぱい食べてね。たくさんあるから食べ切れなかったら持って帰って。そのつもりで作ってきたの」
「すまねえな。それじゃ遠慮なくいただきます!」

 よほどお腹をすかせていたのだろう。デブオタは早速サンドウィッチを掴むやムシャムシャと頬張り、香りなど楽しみもせずに紅茶をゴクゴクと飲んだ。

「うめえ! すまん、持って帰る分まで残らねえかも」
「ふふふ、じゃあ明日はもっとたくさん作ってくるわね」

 嬉しそうに笑ったエメルは、ややあって静かにデブオタへ話しかけた。

「デイブ」
「おう、こんなに美味いのをありがとうな」
「どういたしまして。ねえ、あの凄いCGって日本の技術なんだね」
「まあな。日本のアニメとかゲームが生んだアキバカルチャーの叡智だぜ」
「デイブは日本から来たんだね」
「おうよ、オレ様は日本生まれの日本人だ」
「ジャパニーズイングリッシュだけど、英語話すの上手いわよね」
「ああ。『ドリームアイドル・ライブステージ』に二人、外人がいただろ?」
「アナベリーとルルージュね」
「ゲームプレイで彼女達とコミュニケーションするのに英語が必須でな。覚えるのにちょっと苦労したが、ハイスコアでコンプリートクリアするのにはどうしても必要だったんだ」

 そこまで話したデブオタは、慌てて手にしたサンドウィッチを振り回しながら「お、音楽プロデューサーになる前の話だけどな」と付け加えた。

「……」
「おお、このピクルス絶品だな!」
「ありがとう。ねえ、デイブは毎日ちゃんと食べてる?」

 尋ねられたデブオタはちょっと困惑した顔になったが「リッツロンドンで毎日ステーキを食ってるから心配すんな」と笑った。

「デイブは、どうしてイギリスに来たの?」
「アナベリーはイギリス出身で、ロンドンっ娘なんだ。で、彼女の故郷を見て回ろうと思ってな。これを日本のオタクの間では『聖地巡礼』と云うんだ」

 そこまで話したデブオタはまた慌てて「昔はオタクだったけどな。音楽プロデューサーになったから忙しくて、今頃になってやっと来れたんだ」と、付け加えた。

「じゃあ私、アナベリーに感謝しなくちゃ。彼女のおかげでデイブに会えたんだもの」
「うん、この娘も本当にいたらエメルといい友達になれたろうになぁ」
「デイブ。今までいろんなレッスンをしてくれたわね。なのに、謝礼はいらないって。私、やっぱり何か申し訳なくて」
「何だ、その話は前もしたじゃねえか」

 デブオタは、おかしそうな顔で振り返ってエメルを見た。

「別段、お金なんかかかってねえよ。練習スタジオは全部この公園だし、発声や古典バレエのチュートリアルは無料の動画サイトだろ。ダンスの振り付けは『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードだしな。全部タダじゃねえか。かかったのはせいぜい中古の自転車とシューズとジャージ代くらいかな」
「う、うん」
「気になるなら……そうだな、エメルがスターになったらレッスン料がっぽりボッタくらせてもらうか」

 そのままガーハハハ! と笑い飛ばされ、エメルも仕方なく笑うしかなかった。
 初めて会った時もお洒落とは到底言い難かったが、デブオタの身なりは今ではすっかりみすぼらしくなってしまっていた。
 髪は伸びてボサボサ、着ている洋服はエメルの知る限り四パターンしかなく、みな色褪せ擦り切れている。履いているシューズもよれよれにくたびれていた。
 居住するつもりなどなかったであろう彼が九ヶ月も異国に居るのだ。滞在費だけでも馬鹿にならないだろうに、レッスン料だって一ペニーすら受け取ろうとしない。
 デブオタの身を気遣って、せめてもとエメルは今では毎日ランチを用意していた。
 本当は、もっといろんなことをしてあげたかった。
 エメルは、最近ではどんな些細なことでも彼が気になって、何かと心配するようになってしまっていた。
 普段はどこに住んでいるのだろう。食事はちゃんと摂っているのだろうか、お金の心配はないんだろうか。
 だけど、たまに彼のことをおずおずと尋ねてはさっきのようにいつも笑い飛ばされてばかり。

(いつまでここにいてくれるんだろう)

 それが一番の不安だった。
 ずっとデイブにここに居て欲しい。そう言ってしまいたかった。
 だけど、それはどうしても言い出せなかった。
 それでも、自分の気持ちを彼に伝えたくて……気づいて欲しくて……

「デイブ。私、プロモーションでひとつ希望があるんだけど。我がまま言ってもいい?」

 ようやく何ごとか決心したエメルは、両手をねじり合わせるようにして言い出した。

「おお、何だ何だ」
「プロモーション用の曲のことなの。わ、私……いま歌いたい曲があるの。私の気持ち、そのままの曲。よかったらそれで……その曲で作って欲しいんだけど」
「ほぉ、そりゃいいや!」

 デブオタは、いい提案を聞いたと言うように喜色を浮かべた。

「エメルが歌いたい曲か。それなら気持ちの入れ込みもある分、いい出来になるだろ。じゃあそれで決まりだ。曲名は?」

 エメルは顔を真っ赤にしたが、そのターコイズグリーンの瞳を煌かせてデブオタをまっすぐ見つめた。
 そして息を吸い込むと意を決したように、上ずった声で一気に言った。

「My heart is dyed your eye color(恋は貴方の瞳に染まって)」

 エメルはそのまま固唾を呑んだが、デブオタはこともなげに「おお、それか!」と、眼を輝かせた。

「あ、あれ?」
「よし、いい振り付けと舞台演出を仕込んでおくからな。楽しみにしといてくれ!」

 エメルはキョトンとなってデブオタを見た。
 どうやらデブオタは、エメルが真っ赤になったのは自分から希望をリクエストしたのが恥ずかしかったのだと思ったらしい。屈託なく「いい選曲だ!」と、エメルを褒めた。

「舞台設定はやっぱり野外のライブ会場がいいだろうな。有料オプションであったはずだ。それから振り付けはどのパターンにしようか……組み合わせを考えないとな」
「あ、あのね、デイブ……」
「大丈夫だ、明日までには絶対気に入ってくれるのを作っておくからな!」
「……」
「心配するな。任せとけ!」
「……」

 ポカンとしてその様子を見ていたエメルは、しばらくして脱力したようにガックリと肩を落とし、ため息をついた。

「どうした? エメル」
「……何でもない。楽しみにしてるわ」

 さっきのうわずった声とは別人のように疲れ切った声は、ちっとも楽しそうではなかった。
 しかも、デブオタは「そうか?」と余り気にした素振りもなく、すぐ眼を輝かせてタブレットPCを弄り始めている。エメルは額に手を当てて首を振った。
 そしてもう一度、深い深いため息をついたのだった……


次回 第5話「やがて慟哭という名の雨 ①」


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