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スティーブ・ジョブズとマジック・リアリズム(日常と非日常の境目)

下記はスティーブ・ジョブズの有名なスピーチの一部分だ。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.
「いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。」

僕は『巡礼』という短編小説を読んだとき、ジョブズのスピーチを思い出した。
それは『巡礼』で描かれていることと、ジョブズが語っていることが同じに思えたからだ。

『巡礼』はイタリアの小説家マッシモ・ボンテンペルリ(1878-1960)が第二次世界大戦後に書いた短編小説だ。
物語は「マジックリアリズム」という日常と非日常を融合させる表現技法で描かれている。
物語形式における「マジックリアリズム」とは、わたしたちと同じような価値観を持ったキャラクターが、わたしたちが過ごす現実世界を舞台に生活していたところ、ある日を境に非日常的世界に足を踏み入れる、というものだ。
有名どころの作品だと『千と千尋の神隠し』、『羊をめぐる冒険』などがこれにカテゴライズされる。
物語の序盤ではファンタジー要素が欠片も感じられないほど、いたって普通の「世界(=日常)」が描かれていることが多い。

あくまでも日常と非日常が融合した世界を描くことに限るため、『風の谷のナウシカ』とか『ロード・オブ・ザ・リング』といった、現実世界の色々な法則と大きな乖離がある世界──つまり、わたしたちにとっての非日常的が舞台となっている作品は「マジックリアリズム」にあたらない。

僕が「マジックリアリズム」の作品に触れるときに注目するのは、「非日常的な世界がどう描かれているか」よりも、「日常と非日常の境目をどこに置いたか」だ。
「日常と非日常の境目」のほうが作家の個性が強く表れると思うからだ。

森、トンネル、海、橋、境内など、空間を区切るものは「マジックリアリズム」の境目の装置として使われることが多い。
でも「境目」というのは実体的なスポットだけに限定されない。
それは人間の精神的/観念的なものでもありえる。
『巡礼』に話を戻すと、この小説は「日常と非日常の境目」を「好奇心」に置いた物語なのだ。
下記は私が昔に書いたコラムの流用。

『巡礼』は(…)子供と大人の境目という不安定な青年期の主人公が、合唱しながら行進している「巡礼たち」に交じって「巡礼」に出るという物語だ。
これは「若者が家郷を捨てて、旅立つ」という世界中で展開されている冒険的説話で、このことから察せられる通り、『巡礼』は若者の成長を促すために書かれた教養小説である。
このような物語は山ほど存在するが、『巡礼』はそれらの作品とは少し毛色が違う。
普通は主人公の巡礼に出る理由や目標などが描写されるが、この作品にはそれらが一切描かれない。
(…)主人公が巡礼に出た理由は「好奇心に突き動かされた」からである。
功利的な理由など無い。
(…)それはつまり、直感に従うかどうかが『巡礼』における物語の最大の分岐点ということである。
ボンテンペルリはそこに「日常と非日常の境目」をおいた。

その巡礼はぼくをさそった。

「きみも来ないか?」
ぼくはすぐに同意した。
「喜んで行きましょう」

主人公は直感に従った結果、天使や悪魔と遭遇するという非日常的な体験──つまり、既存の価値観が通用しない「未知の領域」に足を踏み入れることになる。

小説の冒頭では主人公は自宅の窓から外を眺めているだけで、森とか洞窟といった如何にも「境目」らしきところにいるわけではない。
でも、彼は異世界に足を踏み入れることになった。
その理由は「好奇心」に主人公が従ったからだ。

興味深いのは、コラム内でも触れている通り、『巡礼』が教養小説(ビルドゥングスロマン)であることで、教養小説である以上、ボンテンペルリがマジックリアリズムの手法でもって読者に送ったメッセージは決して夢物語的なものではなく、現実世界に当てはめて活用することができる「術」であったと僕は考えている(「幻想短編小説集」に収録されているのを読んだんだけど)。

ジョブズのスピーチと比較してみよう。

llow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.
「いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。」

ボンテンペルリとジョブズの言葉は、「好奇心」という「境目」に向かって進め、という点で共通していると思う。

また、もうひとつ共通点がある。
「いまこれをやっておけば後々役立つだろう」という功利的な目的で動いていない点だ。
当時のMacで画期的だった多様なフォントや字間調整機能は、ジョブズが大学生のときにカリグラフィーの講義を受けていたのがきっかけで搭載されたものだ。
しかし、ジョブズはその講義を受けていたとき、何かに活かそうと思っていたわけではない。ただ面白かったから受けていたと、彼は語っている。
『巡礼』の主人公も同じく、巡礼に出た理由は「好奇心に突き動かされた」だ。

僕自身、人生という大きな枠組みで計画を考えることがあまり得意でない。
直感的に面白そうと思ったことに手を出していってる日々だ。
だけど巷では計画的な人生とかキャリアプランといった言葉が飛び交っていて「僕もそういうことを考えなくてはいけないのだろうか」と息苦しさを感じていた。

そんな僕にとってジョブズの言葉と『巡礼』は心の風通しをよくしてくれる砂漠のオアシスだ(もう少し計画的になってもいい部分はあるけども)。

以前、友人が教えてくれたんだけど、こういうタイプの人を「川下り型」と言うらしい(逆は山登り型)。
川の流れに身を任せて進んでいく、ということだ。どこに着くのかはわからない。
「あの海に出るのかもしれない」と流されながら考えていると、途中で川が分岐して予想とは全然違う方向に進んでいくこともある。
でも、そんな状態が自分にとっては自然に感じる。
とても上手いたとえだと思った。

流される自分を眺めるのが楽しい。
仏教の禅に興味があるのはそのためかもしれない。



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