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『駆込み訴え』太宰治 「メンヘラは読むべき」

このnoteは、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語る設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『駆込み訴え』太宰治

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【太宰治の作品を語る上でのポイント】

①「太宰」と呼ぶ

②自分のことを書いていると言う

③笑いのセンスを指摘する

の3点です。

①に関して、どの分野でも通の人は名称を省略して呼びます。文学でもしかり。「太宰」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。

②に関しては、太宰治を好きな人が声を揃えて言う感想です。「俺は太宰治の生まれ変わりだ」とまで言っても良いです。

③に関しては、芸人で文筆家の又吉直樹さんが語る太宰治の像です。確かに太宰治の短編を読むとユーモアがあって素直に笑えます。


○以下会話

■太宰のメンヘラ炸裂

 「メンヘラな人が読むべき小説か。そうだな、そしたら太宰治の『駆込み訴え』がオススメかな。『駆込み訴え』は、好きな人への愛が強いあまり、愛が憎しみに変わっていく様を描いた短編小説なんだ。簡単にいうとメンヘラな主人公の思いの丈を綴っている小説。一見難しそうな構成になってるけど、その中身は現代でも通じる「メンヘラ」な気持ちが上手に描写されているんだ。

今現在、誰かに片思いしてたり、恋人からの愛が足りないと感じてる人は、きっとどハマりしちゃう小説だよ。

■ユダとキリスト

『駆込み訴え』は、新約聖書がベースにある小説なんだ。主人公のイスカリオテのユダが、イエス・キリストに対してどんな感情を持っていたのかを独白していく構成なんだ。これだけで意味わかるかな?

キリストは最後十字架にされて殺されるけど、このキリストが十字架にされるきっかけを作ったのがユダなんだよ。元々ユダはキリストの弟子の一人として一緒に旅をしていたんだ。その頃キリストは、キリスト教という当時にとっての「新興宗教」を広めていた反逆者として、ローマ政府から指名手配をされていたんだよ。そんな時に、どういう訳かユダがキリストの居場所を政府に密告したことで、キリストは捕らえられて、十字架にされてしまうんだ。

ユダは今でも「裏切り者」の代名詞として扱われていて、日本の漫画とか小説とかにも時々出てくるよね。この一連の「裏切り」を題材にして、どうしてユダが、どんな心理状態で、どんな考えを持って、キリストを売ったのかを、太宰治なりの解釈で語ったのが『駆込み訴え』なんだ。

『駆込み訴え』は、最初から最後までユダが一人語りをする構成なんだ。ユダが政府の役人を目の前にして、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」と言って、これまでの旅の出来事を振り返りながら、キリストへの愛憎を語っていくんだ。

実際に新約聖書になぞって物語が展開されるから、キリスト教の基礎知識がある人はさらに楽しめると思う。

■一人称独白体

『駆込み訴え』の魅力の一つが、ユダの「語り口調」。まさに今ユダが喋っているように書かれていてるんだ。これは「一人称独白体」と呼ばれる手法で、太宰が得意な文体なんだよ。例えば『女生徒』とか『恥』は、主人公が誰かに対して語りかける、まさに「一人称独白体」の小説なんだ。実際のところ、『駆込み訴え』は、太宰が口頭で喋って、それを奥さんが書き留めてできたらしいんだ。

具体的にどんな文体かというと「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。」という感じなんだ。本当に喋ってるみたいだよね。思わず声に出して読みたくなる口語体だから、このまま演劇の台本にされてたりするんだよ。

『ろくでなし啄木』作・演出:三谷幸喜

『駆込み訴え』を読むと、ユダの声がなぜか藤原竜也で再生されるんだよね。まくし立てながらツラツラと滑舌良くセリフを吐いていく感じ。藤原竜也はカイジの印象が強くて「クセがすごい!(ノブ)」イメージがあるけど、映像で見ても圧倒される程の演技力なんだ。蜷川幸雄に鍛えられただけある。この『ろくでなし啄木』、面白いよ。

■愛が憎しみに変わる

ストーリーは単純なんだ。

キリストの弟子の一人であるユダは、長年キリストを愛していたんだ。キリストの美しさを愛し、隣にいてその姿を見れさえすれば、ただそれだけで幸福だったんだ。何の見返りも期待せず、キリストのためにお金を工面し、衣食住の面倒をみてあげた。そのくらいキリストを無償に愛していたんだよ。

だけどいくら「無償」と言っても、どうしても「見返り」を求めちゃうのが人間のサガで、ユダはキリストが何の優しい言葉もくれないことに段々と不満を持ってくるんだ。どうしてあの人は私に振り向いてくれないのかってね。

そんな中、キリストは異端者として当時の政府から指名手配を受けていたんだ。

そして、キリストが村の娘のマリヤに恋をしたのをきっかけに、ユダの愛は憎しみに変わっていくんだ。ユダは、一切を捨てて献身的にキリストに尽くし、深く愛しているのに、肝心のキリストは、その辺の貧しい女に恋心を抱いている。この現状にユダは、私のキリストは私の手で殺さなければいけない、と思うんだ。

ある日、夕食時に、キリストは突然「この中に裏切り者がいる」と言って、ユダを指差すんだ。いわゆる「最後の晩餐」だね。その瞬間、ユダは決心して、料亭から飛び出して、政府の役人のところまで走るんだ。

そしてキリストの居場所を密告して、報酬として銀貨30枚を受け取る。というお話なんだ。

「ただ一緒にいられれば良い」と思って無償の愛を与えていたのに、段々と相応の愛の見返りを求めていって、最後は愛しているのか憎んでいるのかわからなくなるという構成。今の恋愛事情と全く一緒だよね。

■語り口調

何と言っても語り口調が魅力の小説だから、ストーリーだけ追っても面白くないんだよね。だから実際に読んで欲しいんだ。ちょっと長いんだけど、本文を4分の1くらいに短くしたから是非読んでみて。

 申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。あの人を、生かして置いてはなりません。私は、あの人の居所を知っています。

あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。私は、あの人よりたった二月遅く生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たか。

あの人は傲慢だ。あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように見られたくてたまらないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。私がもし居なかったら、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死にしていたに違いない。ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、ぞろぞろあの人について、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂している。宿舎の世話から日常衣食の購求までしてあげたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私の日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言う。

けれども私は、それを恨みに思いません。あの人が、私の辛苦し貯めた金を、どんなに馬鹿らしく使っても、私は、なんとも思いません。思いませんけれども、それならば、たまには私にも、優しい言葉の一つは掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪くしむけるのです。

一度あの人が、春の海辺を歩きながら、ふと、私の名を呼び「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。」そうおっしゃってくれたことがりました。私は声出して泣きたくなりました。ただ、あなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。

私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。私は、なんの報酬も考えていない。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めればそれでよいのだ。あの人は、私の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。

六日前のことでした。村のマリヤが、香油を満たして在る壺を、あの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らし、あの人の両足を拭っていて、私はなんだか無性に腹が立って、失礼なことをするな!と、その娘に怒鳴ってやりました。すると、あの人は、私のほうを屹っと見て「この女を叱ってはいけない。」

その時、異様なものを感じました。あの人は、貧しい百姓女に恋、では無いが、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いささかも取り乱すことが無かったのだ。ヤキがまわった。だらしが無え。あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかも知れぬけれど、そんなら私だって同じ年だ。それでも私は堪えて、あの人ひとりに心を捧げ、どんな女にも心を動かしたことは無いのだ。

マリヤは、深く澄んだ大きい眼がうっとりした娘でした。私だって思っていたのだ。何か白絹でも、こっそり買ってやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。そうだ、私は口惜しいのです。地団駄踏むほど無念なのです。私は才能ある立派な青年です。それでも、あの人のために特権全部を捨てたのです。だまされた。あの人は、嘘つきだ。

あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった!あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。わからなくなりました。ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない。私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな女をかばっておやりなさった。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。

祭司長や長老たちが、あの人を殺すことを決議し、あの人が弟子とだけ居るところを知らせた者には銀三十を与えることにした、と耳にしました。あの人は、どうせ死ぬのだ。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。いや、誰に理解されなくてもいい。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。

私たち師弟十三人は丘の上の古い料理屋の、薄暗い二階座敷を借りて宴会を開くことにしました。いざ夕餐を始めようとしたとき、あの人は、水甕の水で、弟子たちの足を順々に洗って下さったのであります。弟子たちには、その理由がわからず、うろうろするばかりでしたけど、私には何やら、あの人の秘めた思いがわかる気でありました。

あの人は、寂しいのだ。あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。その有様を見ているうちに、矢庭にあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。おゆるし下さい。私はあなたを売ろうとしていたのです。なんという私は無法なことを考えていたのでしょう。熱いお詫びの涙が頬を伝って流れ、やがてあの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、ああ、そのときの感触は。私はあのとき、天国を見たのかも知れない。

あの人は「ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れの無い、潔いからだになったのだ。けれども」と言いかけて、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなされ「みんなが潔ければいいのだが」

はッと思った。やられた!私のことを言っているのだ。私がたくらんでいた気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。私は潔くなっていたのだ。ちがう!ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、呑みくだしてしまった。あの人からそう言われれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れない。

あの人はふっと「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集った。「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。」と、パンをとり腕をのばし、私の口にひたと押し当てました。

私はすぐに料亭から走り出て、夕闇の道をひた走り、ただいまここに参りました。さあ、あの人を罰して下さい。捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。あの人はいま、ケデロンの小川の彼方、ゲッセマネの園にいます。いまごろはきっと天へお祈りを捧げている時刻です。弟子たちのほかには誰も居りません。今なら難なくあの人を捕えることが出来ます。

おや、そのお金は?私に下さるのですか、私に、三十銀。なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ!いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。ざまあみろ!銀三十で、あいつは売られる。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。はい、申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

どうだった?すごい面白いでしょ。いきなり語り出して、最後に「私の名は、商人のユダ。イスカリオテのユダ。」と言って正体を明かす構成、カッコ良すぎるよね。僕が好きな太宰の作品、ベスト3に入るかもしれないな。

■ユダはなぜキリストを裏切ったのか

ユダは、キリストのことを愛しているのか憎んでいるのかわからなくなって、キリストへの裏切りを正当化させるために、「お金のためにやったんだ」って信じ込む。すごい人間くさい行為だよね。

新約聖書の堅い話を、こんな俗っぽい話に味付けできるのは、さすが太宰だよね。どれだけ恋愛の心理状態を把握していたんだ。もし今生きていたら、「恋愛指南系Youtuber」として活躍できるよ。

でも改めて考えてみると、本当にユダがキリストを裏切った真意が「愛憎」だったというのは的外れでもない気がするよね。

フロイトは「好きなのに、嫌い」という相反する感情を、「アンビバレンス」と名付けていて、アンビバレンスな感覚は、人間の普遍的な感情だと言ってる。

ユダが裏切った本当の理由は、キリストという「絶対的に好きな人」を目の前にして、愛憎というアンビバレンスな感情を抱いてしまったからっていう説は、スッと理解しやすいよね。」


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