カレー味のウンコ派に捧げる愛のメッセージ

警告

 このタイトルから読むことを決定するとは、よほど人生が退屈か、あるいは、ウンコ味のカレー派に家族を殺されたのか。
 後者の場合、申し訳ないが、どちらかといえばこれは、あなたの立場であろうカレー味のウンコ派への問題提起であるため、私はあなたの味方にはなり得ない。私がお前の家族を殺した。前者の場合は、なんというか、諦めないでほしい。自暴自棄になるにしても、もう少し良いやり方というものがある。

 本文章は、軽々しく「カレー味なら実質カレーだから全然ウンコ食うよ」と言う者たちへ、その想像力の欠如を叩きつけることを目的としている。

 食事中、およびその前後の閲覧は非推奨であることを強調し、これを警告文とする。

終わりなき論争

 ウンコ味のカレーか。カレー味のウンコか。どちらかを食べなければならない状況で、あなたはどちらを選ぶかと投げかける、この不毛な問いは、一体誰が始めたのか。いつから続いているのか。

 ちょっとググったら、この問いの発祥は昭和末期で、鴻上尚史のオールナイトニッポンであるとされていた。

 しかし絶対にその前に、どこかの名もなき小学生男子が言い出したに決まっている。そしてインフルエンザのように学年、学校へと広まり、次は隣の小学校、そのお姉ちゃんが通っている中学校、そして親世代へと広がっていったに決まっている。世の中を動かしているのはジョブズじゃない。小学生男子とギャルだ。きちんと年を重ねた人間の発想なんて、若い想像力の翼を前にすれば、塵に等しいのだ。

 そんなわけで、この話題は小さき天才少年か、心にギフテッドを飼った鴻上尚史が始めたものであるとしよう。そもそも、誰が始めたか、もはや誰も知らないほどに、この議論は今日も世界のどこかで続いているのだ。誰もが潜在的にこの話題を理解しているほどに。そこに意味がある。それが問題なのである。

 そもそもどちらも食べるべきでない、という前提は無粋であるとして、この論争において、私の立場は一貫して「ウンコ味のカレー派」であることを表明する。理由は単純で、味はカレーでもウンコはウンコであるので、大腸菌による食中毒のリスクが考えられるためである。正直この話はこれでワンパンだと信じて疑っていない。疑っていないが、出題者がそんなことを聞きたいわけではない、とも思えるほどには大人なのだった。

 では、どちらも大腸菌は完璧に取り除かれている状況だとしよう。
(ここで、どちらにも大腸菌が存在するという条件定義も思い浮かばなくはなかったが、大腸菌が存在してウンコ味のものは既にウンコでしかないので、議論が成り立たないと結論付けた。)
 そのとき残っているものは、気持ちの問題だけである。ウンコ味がどこまで許容できるか、という判断基準もあるにはあるのだが、ウンコ味なんて誰も知らないはずなので、それを考えるのは難しい。ウンコ味を知っているような狂人は、どちらの立場も平気だろうから、議論の対象者ではない。食感に関する問題もあるが、カレーは水っぽいものからドライなものまで存在し、それはウンコも同様であるため、条件をそろえることは不可能ではないだろう。

「それがウンコだと分かっているものを、お前は食えるのか?」

 この問いは様々なものを聞いているようでいて、その実、シンプルである。シンプルな問いだからこそ、そのパワーは我々の奥深くに響く。心の腸まで生きて届く。

 これに対して、さも簡単なことのように答える者がいる。「だってカレー味なんでしょ?」と。カレー味なのだから、そして大腸菌も存在しないのだから、それは実質カレーであると、そう言うのだ。ウンコだということを気にせず食えばいいだけだと、つまりはそう言いたいのだ。

 やつらは分かっていない。「でもこれ、ウンコなんだよな」と脳裏をよぎったとき、モノを飲み込むことがどれほど難しいか。気にしない、ということがどれほど難しいか。想像力の翼が、時に地獄まで暴走することを、君たちは知らない。

何が起こったか

 私は三か月以上インドにいる。つまり、三か月以上の期間、毎日カレーを食っている。まれに冗談っぽく「インドってことは毎日カレー?笑」と聞いてくる者がいるが、残念ながら本当にそうなのだ。病院食でさえ激辛スパイスカレーが出てくるような状況であり、その実態はあなたの想像より過酷である。

 日本のインド料理屋で食べられるようなナンカレーは、そのほとんどがタージ・マハルやガンジス川の位置する北インド料理をモデルとしている。対して、私が滞在しているのは南インドで、こちらは日本で言うところのスープカレーが主流である。スパイスで真っ赤になっている液体と米を、手でかきまぜながら食べる文化を持つ地域だ。北にも南にも、とても外国人には判別できない細かさでカレーの種類は存在するため、比較することは難しい。ただ、平均して、スパイスの量が多いのは南ではないか、と言う人が、日本人にもインド人にも多いように思う。

 三食味噌汁だったジャパニの食生活に、大量のスパイスが加えられることとなった。入るものが変われば出るものも変わるとはむべなるかな、私は毎日の食事とトイレで同じ色を目にすることとなる。最初は腸が炎症を起こしているのかとビクビクしたが、昨日食べたものと照らし合わせれば当然の現象であると納得するまで、時間はかからなかった。それは私の日本人の体がスパイスを吸収できないからなのか、そもそも人体では処理できないスパイスだからなのかは不明だ。

 そして、海外生活における共通課題、それは腹の不調である。特にインドはその傾向が強いとされ、ガイドブックには対策が書かれている場合が多い。短期であれば逃げ切れなくもないが、100日以上を過ごすならば一回や二回の腹下しは覚悟の上、もはや通過儀礼である。日本人以外の留学生も多く見たが、インド人でない限り、来て2か月以内には腸に何らかの問題が発生するのが相場といったところだ。衛生面でやられたか、長期的なスパイスの過剰摂取によるストレスか、思い当たるフシが多すぎて、正確な診断はほぼ不可能であり、留学生全員が同じ症状を訴えているにも関わらず、その治療法が「水飲んで治す」しか存在しないという、医療とは何だったのかと気が遠くなる現状がある。

 内臓が仕事をサボりはじめ、水ばかり飲んでいれば、当然お腹はゆるくなる。しかし、食わなければ死ぬ。選択肢は、目の前のスープカレーのみである。そんな場面に立ち会った人間は、己の消化器官が、あくまで1本の管なのだと、その身をもって知ることとなる。

 そして私は、トイレで思う。

「これほぼカレーだな」と。

 色も質感も、なんなら消化器官が仕事をしていないのでにおいも、食堂で見たものと自分で排泄したものに違いを見受けられない、という現実を認識する。それがいかに悲惨なことか、理解していただけるだろうか。

 人間というのは大したもので、そんな状況を経ても、時間をかけて徐々に復活する。復活しようがしまいがカレーしか食べられないのだから、そのうち脳も腸もインドに屈服し、考えることを辞めるのである。ただ、トイレで思うにはまだ良いものの、食事中に考えるにはちょっとしんどすぎることまで思い出してしまうのが、人間の記憶力の厄介なところだ。

あの問答のせいじゃね?

 私の思考回路の中で、食事と排泄という一番繋がってほしくない部分に太いパイプが形成される。事実、その二つは繋がっているのだが、特に食事中はあまり考えたくないですと主張することは、断じて甘えではない。

 トイレで昨日食べたもののことを考えるのはまだ許せる。しかし、目の前の食事トレーにのっているモノに対して、「これ昨日トイレで見たな」と思うのは、想像を絶する地獄なのである。

 私は知っている。目の前にあるものが、きちんとカレーであることを。断じてウンコではないことを。長い食文化によって形成され、良いバランス感覚で調合されたスパイスカレーなのだということを、私はちゃんと知っている。

 しかし誰かが、私の頭にささやき続けるのだ。「カレー味のウンコ」という言葉を。もうそうなったら終わりだ。どんなにそれがカレーでも、意識がウンコをとらえてしまったら、それは既にウンコなのだ。カレー風味のウンコを意識しながら食べるカレーは、もはやカレー味のウンコなのだ。自分でも、もう何を言っているかよくわからない。

 限界な精神に発狂しそうになる中で、私は思った。「そんな文章が存在するから良くないんじゃね?」と。
 もし私が、人生で一度も、「ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコか」という話題を聞いていなければ、こんなにも意識することはなかったのではないか。この話題が存在しなければ、食べたものがそのまま出るね、とまでは思っても、食事中に思い出すほどではなかったのではないか。

 この話題を今もなお、こすっている人間に教えてやる。その話題が面白いのは何故か。それは、今日のお前の食事が、カレーではないからだ。カレーだったとしても、逃げの選択肢があるからだ。カレー以外に食べるものがあるからだ。

 カレー味のウンコ派に教えてやる。お前がなぜその立場で平然としていられるか。それは、カレーとウンコを本気で比較したことがないからだ。ウンコだと思って、モノを食べたことがないからだ。ウンコ味のカレー派に対して、カレー味のウンコ派は少々軽率すぎる。私はそう思うのだ。本来ならば眉間にしわを寄せ、決死の覚悟で選ばれてしかるべき立場なのだ。

 かといって、ならばウンコ味のカレーならば良いか、と言われたら、そんなわけはない。そもそもウンコ味って何だ。昨日食べたもんに依存するだろ。カレーか? 昨日食ったもんはカレーなのか? 昨日食ったもんがカレーで出てきたもんもカレー味なら、それはもうほぼカレーと言えるのではないか?

 大体、日本でこの話題を発展させるには、共通で認識されているカレーのバリエーションが少なすぎるのだ。

 そもそもこの話題が存在すること、それ自体が間違っているのだ。こんなものは人類史から抹消しなければならない。この記憶は我々の世代で内にとどめ、この話題を知る全ての人間が火葬されガンジス川に流されるまで、口にしてはいけないのだ。

余談

 この話題を出すとき、必ず表記がウン「コ」になるのが、日本語の不思議である。カレー味のウンチと言われている場面をほぼ見ないような気がするし、「便」表記に至っては、ありえないとさえ感じる。

 実は、学術の上ではウンチとウンコは別物であると、どこかで聞いた。なんでも、ウンコは草食動物の便を、ウンチは肉食動物の便を指すのだとか。それに従うならば、この論争に出てくる便は、今回話したような人間のそれではなく、ウサギやら何やらのフンだということになる。シカのフン、なんてお菓子も販売されているくらいだし、あのコロコロした感じで、しかも植物のかおりがするのであれば、ギリギリ食えなくはない……気がする。カレー味だし。牛のフンなら絶望だが。

 せっかくカレー大国に住んでいるのだから、「カレー味のウンコ派か、ウンコ味のカレー派かという議論が日本には存在する」と、インド人に聞かせて反応を見てみようか、なんて考えも何度か頭をよぎったが、カレーを心から愛する彼らを前に、場合によっては国際問題になるのではないかという懸念の方が大きかったため、心の中にとどめている。

 そして、この文章を書いている間、常に頭の中は「ずっと何言ってるんだろう」という自分への疑問でいっぱいだった。これを書いているのが本当に女子大生ならば、明らかにどこかで道を踏み外している。しかし、書かなければやっていけなかった。書かなければ気が狂った。いや、既に狂っているから、こんなものを書いているのか。何だか怖くなってきた。落ち着くためにカレーを食べなければならない。

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