見出し画像

とうとう脱「見る専」か?

来週にも、およそ2年半を過ごしたここ大阪を離れるのだが、今度こそちゃんとInstagramの発信をしなくてはならないと思うようになった。

というのも、大阪を離れますという連絡を友人に入れたのだが、一部の友人から「ポストほとんどされてないけどインスタで動向チェックするね〜」という話があった。僕はSNSの投稿はずぼらで、まず基本的には投稿しない。だが、遠くの地では「あの人は今何をしているのだろうか」という気持ちでSNSを見ているらしいのだ。

距離が離れていても繋がっている感覚があるというのは現代のおもしろいところ。僕はその人たちに対して生存報告をしっかりしなくては、それはそれで不親切に当たる気がする。

とはいえ、別に毎日SNSを更新しなくてはならないようなことではないと思うのだ。月いちでも何かを更新すれば動向は伝わるわけで、それであればストレスにはならずに済むように思える。投稿の内容も、きっとそのときになれば何かしらテーマが出てくるのだろう。最近であれば、友達に案内してもらった美味しいご飯とか、関西のディープなお店とか、そんなところである。

僕からしたらどうでもいいことでも、友人からするとおもしろいのだ。

***

そういえば、僕がInstagramを始めたきっかけは、いつの日かの失恋であったことを今思い出した。傷心して、何か新しいことを始めたくなったのだ。友達とも話しながら、ドキドキしながら初めてのポストをした記憶がある。最初は別に誰が見ているわけでもないのに、無駄にドキドキしたものだ。

ずぼらに投稿したりしなかったりで数年の月日が経ち、インスタで繋がった友人も増えたものだ。「友人」とはいっても知り合いや顔見知り程度の人たちがほとんどではあるが、本当の繋がりを持つ「友人」もいるわけで、たまにコミュニケーションもとる。いちおう、時代にはついていっている。

発信こそしないものの、なんだかんだ生活の一部になっているものである。

手紙でしか繋がれなかった時代を考えれば、現代ほど恵まれた時代はないのかもしれない。ネットがあれば、どこの人たちとも繋がれるのだ。時としてSNSはけむたくも思うかもしれないが、恩恵もやはり大きい気がする。

そんな恵まれた環境で、発信しないというのももったいない話なのかも。

***

これまでは「見る専門」でインスタを活用してきた。しかしながら、ある意味では「発信専門」で活用するのもありなのかもしれない。他人の投稿は見ずに、自分の活動だけを発信していく。それはそれで、自分ワールドというのを形作っていけるチャンスなのではないだろうか。

少なくとも、見ているだけの受身スタイルよりはマシであろう。

大阪を離れて、環境も変わる。田舎の方へ移住するのだが、その生活そのものや生活を通じて感じたことを発信するのもまた、価値あることである。これから先、人生のターニングポイントがたくさんあるし、自らの軌跡を残すという意味でもSNSは活用してもいいのかもしれない。

とはいっても、僕にとってはハードルが少し高めではあるのだが。

まあ、もう少し考えてみよう。

2024.04.04
書きかけの手帖

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?