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ジョン・アダムズとマーラーと小室哲哉 「作曲家」を育てないとクラシック音楽に希望はない

団塊のミニマリスト


現代アメリカを代表する作曲家、ジョン・アダムズ(1947〜)は、コロナ期間中の昨年、75歳の誕生日を迎えた。

日本で言えば団塊の世代。村上春樹などと同世代だ。

いわゆるミニマル音楽の創始者、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスといつも並び称されるが、ジョン・アダムズは、ライヒやグラスより約10歳若く、ミニマリズムというより、それを発展させたポスト・ミニマリズムの作曲家と言うべきだろう。

音の動きや素材を最小限(ミニマル)に抑えるからミニマルミュージックと呼ばれるが、アダムズは、ミニマリズムの基本姿勢を継承しつつも、一方ではそういう抑制を「ケチ臭い」と感じ、もっと「贅沢」な音楽体験を追求している。


70代になった最近の映像を見ても、彼はいかにも団塊の人だ。いつもジーンズのようなラフな格好をしていて、何かのインタビューで見たが、「マエストロ」と呼ばれると「やめてくれ」というポーズをする。

ハーバードの音楽科でアカデミックな音楽を学んでいた1960年代、学校を抜け出してジミヘンを聴き、西海岸のヒッピー文化にもどっぷり浸かった。その世代特有の「権威嫌い」が身についている。


コロナ期間中、彼の75歳を記念して、特別編集盤や全集が発売されたり、さまざまなコンサートが開かれたりした。

ジョン・アダムズは指揮活動もしており、この期間に、自作を含めたいろいろな曲を振っている。

そのいくつかはYouTubeで見ることができ、以下はその一例だ。

2021年10月13日 ジョン・アダムズ指揮 オランダ・ロッテルダムフィル


ライヒ、グラスの作品と、自作を並べたプログラムだが、意外なことに、この3人でプログラムを組むのは、彼は初めてだそうだ。

参考まで曲名を記せば以下のとおり。


1 スティーブ・ライヒ「スリー・ムーグメンツ」(1986)

2 フィリップ・グラス「ダブル・ピアノ・コンチェルト」(2015)*ラベック姉妹との共演

3 ジョン・アダムズ「素朴な音楽と情感の音楽 Naive and Sentimental Music」(1999)


ちなみに、アダムズの「素朴な音楽と情感の音楽」は、ブルックナーの4番から着想を得た実質的な「交響曲」だ。

よいコンサートなので、音楽好きには広くお勧めできる。


ジョン・アダムズとマーラー


このコンサートの幕間イベントで、ジョン・アダムズが、インタビューに答える形でトークしている。

その中で、自作を指揮する作曲家として、リヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーとの比較が話題になる。

そこで本人も言っているように、シュトラウスはともかく、マーラーとジョン・アダムズの立ち位置は明らかに違う。


19世紀末のウィーンにおいて、マーラーは有名人だったが、それは指揮者としての名声であって、作曲家としての評価は低かった。

彼は、モーツアルトやワーグナー、そしてオペラの指揮者として定評があった。後世の人間は、マーラーには指揮活動を控えめにして、もっと作曲してほしかった、と思うが、マーラーとしては、指揮活動に重点を置かざるを得なかったのだ。

そのあたりのことは、トゥールミンの有名な『ウィトゲンシュタインのウィーン』に書いてある。

同時代にマーラーの真価を見抜いた数少ない音楽家が、若いブルーノ・ワルターやシェーンベルクだ。シェーンベルクは、マーラーの作品が生前「アカデミックが肩をすぼめ、実際に軽蔑して見落とされた」ことに憤って、自著「和声学」をマーラーの魂に捧げた(『ウィトゲンシュタインのウィーン』平凡社ライブラリー版p179)。


一方、ジョン・アダムズは、当時のマーラーよりはるかに作曲家として認められている。だから、指揮よりも作曲に多くの時間を費やせる。

その点では、彼のハーバードの先輩のレナード・バーンスタインとくらべても、明らかに恵まれている。バーンスタインは作曲家としては不遇で、指揮者としての評価を、作曲家としての評価が超えることは決してなかった。

(ジョン・アダムズは学生時代、ピエール・ブレーズ派で、バーンスタインが作曲する調性音楽は時代遅れだと、バーンスタインに喧嘩を売っていた)


しかし、ジョン・アダムズの作品、あるいは、ミニマル派、ポストミニマル派全体が一緒にされ、「皮相でキッチュな偽クラシック」と一部で見なされているのも確かだ。

それはそれでいいのだが、自分たちは、マーラーを無視した19世紀末の聴衆と同じかもしれない、と考えてみるのもいいかもしれない。

マーラーの作品が本当にコンサートのレパートリーとして定着したのは、死後50年たってからだった。

ジョン・アダムズについても、本当の評価が下されるのは、まだ時間がかかるだろう。


クラシックコンサートに聴衆を呼び戻す


ジョン・アダムズとマーラーの共通点は、それよりも、オーケストラ作品を中心に書いている、「オーケストラ愛」にあふれた作曲家であることだ。

その「オーケストラ愛」が他のミニマル系作曲家との違いだ、と、上のインタビューでも自分で言っている。

ジョン・アダムズの父親はビッグバンドジャズのクラリネット奏者で、彼自身も子供のころから、クラリネット奏者として地元のバンドでポピュラー曲を演奏していた。下手っぴなバンドだったが、それでも病院に慰問に行って演奏すると、涙を流して聞いている人がいた。それに感激したのが自分の原点だ、と何かのインタビューで言っていた。


何よりも聴衆を愛するジョン・アダムスは、クラシックコンサート会場から聴衆が消えていく時代の目撃者でもあった。

上のインタビューでも、

「芸術音楽は、『春の祭典』を理解する聴衆ですらついていけなくなり、エリート・スペシャル・クラブになってしまった」

と彼は言っている。

彼は、現代の聴衆をコンサート会場に呼び戻すために戦っている。

アダムズは、色彩的で情感的な音楽により、ネオロマンチストとも呼ばれている。ロマンチシズムこそ、厳格なミニマリストが拒絶したものであるはずなのに。それも、上の世代のミニマリストたちと違う点だ。

かつてはピエール・ブレーズ派で、ジョン・ケージに決定的な影響を受けた彼も、現在は「アンチ前衛音楽」派とみられている。

英語版Wikipediaにも以下のように書いてある。


ジョン・アダムズのスタイルは、かなりの程度、新ウィーン楽派とダルムシュタットが推進したセリエル派モダニストへの反動である。(Wikipedia)

His style is to a considerable extent a reaction against the modernist serialism promoted by the Second Viennese and Darmstadt School.


今は、クラシックの「過去の名曲」を聴きたいなら、ネットに無数のアーカイブがあり、ダウンロードすれば済む。

多数の聴衆を惹きつける、魅力的な、生で聴きたいと思えるようなオーケストラ曲が新しく作られないなら、誰もコンサート会場に来なくなり、クラシック音楽界は滅亡するだろう。


そういうジョン・アダムズの考えは正しいと思うし、その考えに共感するからこそ、サイモン・ラトルとか、デュダメルとかの有力指揮者が、アダムズや、同じ流れにあるいわゆる「ニュークラシカル」の新曲をプログラムに入れるのだと思う。

それが、クラシックの聴衆の主流派には好かれないとしても、業界の将来を考えてそうしていると思う。

その甲斐があって、ジョン・アダムズの作品の評価は上がってきており、若者を中心にファンがふえていると思う。

今はまだ、ジョン・アダムズのような現代曲だけでホールを一杯にするのは難しいとしても、彼の存在が、アメリカのクラシック界の、将来に向けた希望になっている。


日本の音楽愛好家の中には、新しい音楽は認めるとしても、ミニマル派やジョン・アダムズらの音楽はあまりに「アメリカ的」だ、と思う人がいるかもしれない。その気持ちもわかる。

それなら、日本で、日本の「ジョン・アダムズ」的な存在を、業界をあげて作り出し、盛り立てていかなければならないはずだ。

そういう試みがなかったわけではないだろう。「佐村河内守」や「久石譲」がそうだったのかもしれない(?)。だが、いずれにしても成功しているとは言えない。


「ビート」の支配と小室哲哉


上のインタビューで、ジョン・アダムズが、ミニマル派に共通する「パルセーション palsasion」「ビート感」について語るのを聞いて、私は小室哲哉を連想した。

規則的に、正確に、いつまでも繰り返されるリズムパターンと、それが生み出す「ビート感」の重要性に、日本でいち早く気づき、それを音楽に反映させて画期的に成功したのは、小室哲哉ではなかろうか。

それは、彼自身が、何かのインタビューで語っていた。彼以前の日本のポピュラー音楽は、彼の感覚ではリズムが甘く、ちゃんと踊れない。いわゆる「打ち込み」によって、正確なリズムで人を踊らせる音楽を自覚的に作ったのは自分だ、と。

小室哲哉がヒットチャートを独占したのは1980年代から90年代のことだったが、1970、80年代からのミニマル音楽の流行との同時代性を、感じざるを得ないのだ。

上のインタビューでジョン・アダムスが言っているように、結局その源泉は黒人音楽である。

20世紀の音楽を「20世紀的」たらしめた要素は、やはり黒人音楽だろう。黒人音楽はジャズなどで発展し、その和声的要素を20世紀前半にドビュッシーやラヴェルが取り入れて一般化し、ビート的要素が、20世紀後半にはロックなどポピュラー音楽界を席巻した。

ジョン・アダムズは、和声にジャズ要素が濃いのは指摘されるが、それ以上に、アフリカ音楽を研究したスティーブ・ライヒなどから、必ずしもジャズに依らない、もっとダイレクトな民族的ビート感を取り入れた。

ジョン・アダムズの曲を演奏している動画で、よく見かけるのは、オーケストラ内の演奏者が縦に動いてリズムをとっているシーンだ。タテノリである。若い奏者ほど演奏を楽しんでいる様子もわかる。

ジョン・アダムズの音楽に価値があるのは、アカデミックな音楽もポピュラー音楽もすべて呑み込み、それを最高の水準で総合しているからだ。彼の音楽は、20世紀の音楽遺産を、21世紀のクラシック界につなぐ役割を果たしている。

ただ、ジョン・アダムズは和声から音楽を作っていくタイプで、メロディは後回しだ。その点を補い、ミニマル派に学びながら、メロディを重視するアンナ・クラインのようなアメリカの新しい世代に、彼の使命が受け継がれている。


日本: 「作曲家」を育てる必要


さて、問題は日本だ。

前にも書いたとおり、世界中でオーケストラは経営危機を迎えている。日本も例外ではないはずだ。


小室哲哉を生んだ日本は、将来への希望につながる、日本の「ジョン・アダムズ」を生めないわけはない、と思う。

とはいえ、早くしないと、時間はない。

小室哲哉とか関係ない、クラシックはクラシックの遺産だけ守っていけばいい、という考えではーーファンはそれでいいけれどーー業界としてはまずい。それでは先が見えている。

日本のクラシック業界は、その随伴者である音楽マスコミ含め、あいかわらず「演奏家主義」で、コンクール優勝者や「若き天才」の売り出しばかりやっている印象がある。

演奏家ばかりでなく、新しい作曲家と、新しい聴衆を育ててほしい。

それが、クラシック音楽が生き延びられるかどうかの鍵だと思うのだ。

もちろん、私が思うくらいのことは、みんな思っていると思うが・・。


<参考>


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