見出し画像

発問の恐ろしさ

今年も教育実習生がやってきました。実習生が来ると学級が生き生きとするし、我々も授業を参観することで新たな学びにつながるので、教育実習生が来てくれることは、本当にありがたいです。

また、この時期は教員採用試験があり、2次試験で10分間の模擬授業があるということで、勤務校の講師の先生方4人が模擬授業を見てくださいとお願いに来ます。

教育実習生と講師の先生方の授業を見て感じたことを一つ。

それは「発問の恐ろしさ」

導入の部分の発問は身の回りのことについて尋ねることが多いので、生徒も考えやすく、いろいろな発言が出て面白いです。

例えば保健体育のスポーツと人とのかかわりを学ぶ学習をします。身の回りにあるスポーツの名前を質問したり、自分がどうやってスポーツを楽しんでいるか質問したりすると、いろいろな答えが出て教師と生徒の間に対話が生まれます。そして教師が課題に迫る発問で「ではスポーツの働きは何でしょう」と質問しました。ここで生徒の発言はピタッと止まってしまいました。教師はスポーツを楽しむ方法として「見る」「知る」「支える」「する」という関わり方を生徒から引き出したかったのですが、まったく生徒からこの言葉は出ませんでした。その瞬間今まで発言しやすい空気だったのが亡くなってしまいました。

さらに教師は「『見る』『知る』『支える』『する』だよね。」と言ってしまったことで、生徒は置き去りにされてしまった感が生まれてしまい、今まで前のめりで参加していた聞く態度から、「どうせ先生が進めちゃうんでしょ?」と言いたいかのように、背もたれに背中をくっつけるような態度に変わってしまいました。

本当に「発問の恐ろしさ」を感じた瞬間でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?