嫌いなものは同情と遠慮
同情と共感のちがいは何だろうか。
たぶん、わかっていないか、わかっているかの差なんだろう。
家族を亡くしたことのない者に、家族を亡くした苦しみが共感できるわけがない。そいつは家族を亡くした苦しみについて、映画とか小説で身につけた想像力をふんだんに使った同情をすることしかできない。
でも家族を亡くしたことがある者ならば、自分の時と照らし合わせて、その時の感情を呼び起こし、共感をすることができるはずだ。
遠慮と配慮のちがいは何だろうか。
たぶん、想っていないか、想っているかの差なんだろう。
家族を亡くした者のことを、そっとしておいてあげるという思慮深い文化が人間にはある。
遠慮のうえに行われたその文化は、家族を亡くした本人の気持ちなんかよりも、その苦しみに触れることで発生する混沌のことをめんどうくさく思っている。
でも配慮のうえに行われたその文化ならば、その苦しみに触れることによる本人の気持ちをただ真っ直ぐに想ってやれているんじゃないだろうか。
僕は同情と遠慮が嫌いだ。
同情して、遠慮して、触れないという行いに一番気が立つ。別物として扱われている感覚が、たまらく違和感なのだ。
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