見出し画像

第261段「わたしにとってのテレビは、フーコーにとっての監獄である」

備忘録的に書いて置こうと思う。
コロナ禍の緊急事態宣言で篭ってる日々を過ごしながら、今日2020年4月25日土曜日の気持ちのいい天気の午前にコロナを気遣いながら人混みを避けゆっくりと散歩をし、渋谷までカフェマメヒコの会員制お弁当を取りに行き、スタジオに戻りそのお弁当をお昼には美味しく頂き、そのあと昼風呂に浸かりながらゆっくり読書をしていた15時あたりに、自分が何をすべきなのか?が突如脳裏によぎったのでした。

自分はこれまで10冊の本を書き、その本達はそれぞれ自分の書いた時の書ける能力の最大限を使って書いたし、読者の皆さんからは、多くの良感想と、そんなに多くない悪感想を頂いたりするのですが、良感想は殊の外嬉しく、悪感想に至っては、「僕は世界史だろうが地理だろうが、そのジャンルの専門家じゃないんだよ!というか、それ本の中でも言及してるでしょうが!もし中身が物足りないなら、それは貴殿に書かれた本ではないってことの顕現だし、それが納得いかないならそのジャンルの論文なり学術書を貴方が勝手に読めばいいじゃん!」なんて反論もしたいなって思いつつも、喧嘩になるのも嫌だからほとんど傍観してるのですが、一方で自分もインフルエンサー的な他者が書いたいわゆるビジネス本や自己啓発本の類いを手にしたとき、殊の外、書かれていことの陳腐さや既視感を感じたり、その根拠の無さや「それは個人の思い込みじゃん」的な感想を抱いたりもしたりして、そんなにビジネス本や自己啓発本の類いは、実はあまり好きじゃなかったりするのが本心でした。自分こそがその類いの本をまさに書いてるのにも拘らず。

で、自分は昨年から東大大学院で文化資源学を専攻し、今年の修士二年で、修士論文を書くわけですが、テーマや書きたいことは、『バラエティ番組について』という風に朧げながら見えてるのだけれど、なおかつ今まで散々そんな文章の類いを書いてきたのだけれど、さて自分は文化資源学研究者として、どんな風に論文を書けばいいのか?ってのがてんでわかっていなかったわけです。

それが、今日2020年4月25日15時あたりに、突如わかったのでした。これはアハ体験というのでしょうか?
自分が書かなければならないこと、書き方、書くための準備、それらが一気に見えたのでした。
なんて言うか、厳密には言語化できないんだけど、敢えて言語化すれば、“研究者は研究について書けばいいのだ”とわかったのでした。
「なにをこいつは当たり前のことを言ってるんだ?」と思われた方もいるでしょうが(笑)、つまりそれが、それこそが、僕にはわかっていなかったのでした。
今までの僕の書いた本は、「世界をどう見る」という、自分なりの見方で、世界をいろんなジャンルで(世界史だったり地理だったり占いだったり)自分なりに切って貼って書いていたのでした。つまり自分の想いは本にしていたけれど、自分の研究を、本にしたことは一度も無いのでした。

つまり自分の論文は、“自分の研究について”書けばいいのです。

やっぱり、「なにをこいつは当たり前のことを言ってるんだ?」って思われるでしょうが、でもいいんです、だってこの拙文は備忘録として自分のために書いてるのですから。
そして少なくとも僕がわかったことは、これから書くであろう論文は、まさにこんな駄文の拙文じゃいけないってことなのでした。つまり、

「わたしにとってのテレビは、フーコーにとっての監獄である」

・・・そうなのです!つまり僕にとっては、つまりそういうことなのでした!
それがわかった僕がまず最初にやったのは、このことを決して忘れないように、急いで風呂を出て、これを書きとめた瞬間の『15時14分』を指し示す時計を、とりあえず写真におさめることでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?