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第154段「一発芸はやりたくない」

若い頃から飲み会とかで一発芸を要求される的なの物凄く嫌だった。
それがおもしろいならともかくやってもどうせおもしろくないのになぜやらなければならないのか?
なぜ恥ずかしい行為を要求するのか?
そんなコミュニケーションが場を円滑にすると思ってる感じも嫌だった。
笑いとおもしろいは違うのに。

「笑い=おもしろい」と「笑い≠おもしろい」がある。
僕は「笑い」も含めて「おもしろい」が大好きだけど「笑える」しか「おもしろい」だと思ってない人や場がどうにも苦手だ。
そんな人や場が一発芸を要求する。
僕はそんな通り一辺倒が嫌でテレビで「おもしろい」を生み出したくてテレビマンになったのだ。

今のテレビの中ではコメントのうまさって、瞬間的な切り返しやリアクションのうまさみたく思われちゃうけど、その話の本質をどう切り取るか?ってとここそおもしろさの本質だと僕は思う。
変顔、一発芸、うまい言い回し、それもおもしろいけど、それだけじゃ無い。
そう感じてテレビマンを辞めたのだ。

でもテレビの中だけでなく、今の○○映え(ばえ)ブームって、なんかそんな一発芸を要求されてるような無理強い感と、見せかけだけの嘘臭さと、本質じゃない気持ち悪さとを、社会や暮らしやビジネスのいたるところで感じてしまう。

そんな映える一発芸が楽しい人は、勿論やればいい。
けどそんな映える一発芸が苦手な人には、確実に生き辛さにもなっている。

映えようが映えまいが、自分が思う、いいものがいいものなのだ。
そう思えるような、そう思ってもいいような、もっと何発も撃つような、或いは一発も撃たないような、もっと自由ないろいろな「おもしろい」を生み出したい。

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