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【鎌倉殿通信・最終回】遺志を継ぐ者たち

源頼朝亡き後、武家政権を維持・発展させた北条政子・義時姉弟も、貞応じょうおう三年(1224)に義時、翌年に政子が相次いで亡くなります。

義時の長男である泰時は、承久の乱後、京都で戦後処理にあたっていたため、父の死に目には会えませんでした。ときに42歳。以後、執権として幕政を主導しますが、継母にあたる伊賀いがの方が三浦義村と協力して実子の政村を執権にえようと画策するなど、その前途は多難なものでした。

近年発見された藤原定家さだいえの日記『明月記めいげつき』によれば、危篤状態の政子に対し泰時が何度も「あなたにもしものことがあれば、私は一線を退きます」と言うと、「天下を鎮守することが恩に報いることになるのです」といさめられたといいます。この会話から、泰時が政子を非常に慕い、頼りにしていたことがうかがえます。

政子の死後、泰時は「御成敗式目ごせいばいしきもく」の制定や切通きりどおしの造成、和賀江嶋わかえのしまの築港など、鎌倉の発展に尽くし、希代の名執権として名を残します。政子・義時の遺志は、泰時に引き継がれたといえるでしょう。

もう一人、政子の権力を引き継いだのが竹御所たけのごしょです。父に二代鎌倉殿頼家を持つことから、頼朝・政子の血を受け継ぐ存在でした。比企氏の滅亡後、三代鎌倉殿実朝の妻の養子となっていましたが、実朝の死後、政子の庇護ひごの下で育てられたと考えられます。政子が亡くなると、竹御所は政子の葬儀や仏事を主催し、幕府行事にも参加するなど、政子の後継者としての活動を開始します。ときに24歳。

一方、8歳に成長した三寅みとら(次期鎌倉殿)は元服げんぷくを遂げて頼経と名乗り、征夷大将軍に任じられました。まだ幼い鎌倉殿頼経を執権泰時が補佐していくことになります。そして、寛喜かんぎ二年(1230)、29歳の竹御所は一六歳年下の頼経と婚姻します。源氏と北条の血を引く竹御所は、鎌倉殿の妻の座に収まることで源氏将軍家を維持したのです。亡き政子や義時の意向だった可能性も十分に考えられますが、残念ながら、男子を死産し、亡くなりました。

その後も、北条氏は一族の女性や養女を鎌倉殿の妻にするなど、将軍家との関係維持に努め、得宗とくそう(北条氏の嫡流)に権力が集中していきました。幕府の礎を築いた政子・義時の遺志は、次の世代へと託され、鎌倉に産声を上げた日本史上初の本格的な武家政権は、およそ150年もの間続くことになるのです。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年12月1日)