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書けない日には、書けない日の良さがある

たったいま、ちょっと遅くに夕ご飯を食べて、食後のルイボス茶をひと口飲んだところ。割と近場で救急車の音がした。住んでいるところはとても田舎の集落だけど結構救急車が通ることが多いような気がする。こういうとき、親きょうだいや友だちは元気だろうか、元気でいてほしいと思ったりするね。
今日もなんとなく瞑想するモードに入りこみたくて、またキーボードを打ち始めた。だけどなんだか文字列が進まない。書きすぎてブレーキがかからないときもたまにはあるが、書きたいのに書けない日だってある。
わたしは2018年から自分勝手にライティングを始めた。その後友だちが創刊した雑誌に参加したのが2022年。その時に書いた記事を元にして面談してもらい、いまは3つの媒体の外部ライターとか契約ライターという形になっている。自分のことをライターだと名乗るようにはなったけど、書くことははっきり言って上手じゃない。向いてないなーと思うこともよくある。好きなことを書けばいいだけのnoteにだって、なかなか文章を書けないことがよくあるんですよ。
書ける日と書けない日って、いったい何が違うのだろうか。何かに追われていて逃げたくて、そのおかげでめっちゃ書けるっていう日もあるし、書きたくなるような出来事があって筆が進む時もある。でも、そういった状況っていうのは一つのきっかけに過ぎないような気もしている。シチュエーション以前に、心の中に湧き出しているものがあるかどうかってことに、文章の勢いはかかっている。海で例えるなら気分が満ち潮か、引き潮か。湧水で例えるなら、夏場と冬場の降水量の違いで水量が変わるみたいな感じ。自分の中にあるそのときのパワーの分量で、書けるか書けないかが決まってるかもしれない。
そうなんやけど…書けない日の文章がよくない、ってことでもないから不思議だ。書けない日は書けない日の良さがある。それは文豪とか音楽家に限った話ではなく、一般人だってそうだ。書けない日に少しずつ書いた盛り上がりに欠ける文章を自分で読み返すと、しみじみしたり励まされたりすることもある。いーつもハイテンションじゃ生きていけない。日々わりと、ばかばかしいことを考えるのが好きなわたしにだって、こうやって真顔で普通に書く淡々とした時間が必要だ。
あとで考えてみると、落ち込んだ時に書いた言葉が自分を助けることが多い気がする。逆に、調子がいいと自分で思いこんでいる時の文章に自分の足元をすくわれる日もある。それは子育てとか仕事とか、日々の暮らしにしても同じことか。

テンション低い日にこうやってぽつぽつ書くのが好き。ほとんどは下書きで表には出さないことが多いけど、大事なことの大半は目に見えないところにある気がする。そしてきっと目に見えないところが、実は自分以外の人にはくっきり見えてしまっていることもあるんだろうな。
この文章は昨日の夜に途中まで書いて、途中からは今日の夜に書き足した。この頃noteには勢いつけて書いてる日が多かったけど、それは一つの側面にすぎない。勢いもなにもない、静止画みたいな自分が確かにいつも心の中にいるっていうことを、どこかに書いておきたかったのかもしれないなーと思う。

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