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短歌を詠むのがしんどいのは言葉の筋トレだからかも。

明日は歌会の日なのです。
7年か8年くらい前に短歌を始めるまでは、短歌を講評しあう集まりのことを「歌会」と呼ぶことも知らなかった。短歌のことはなんにも分からなかったけど、言葉に興味がありそうな楽しい人たちを誘って新しい歌会がスタートした。それが5年くらい前のことだ。コロナ禍の3年ほどは会をお休みしていて、去年の12月からじわっと再開しておりまして。毎月お題にしたがって短歌を作る…いや、短歌の世界では「詠む」といいます。わたしはそれに四苦八苦しているのですよ。。
いつの間にか、2つのことを同時にできない脳みそになってしまっているわたし。たとえば、いま娘っこが隣で娘っこの好きな音楽を聴きながら勉強しているんだけど、その音楽が聴こえてくるともう何にも考えられなくなってしまう。大昔はラジオを聴きながら勉強してたから、ながら勉強できてたんだと思うんす。いつの間にこんなに不器用な脳の持ち主になってしまったんだろうか。
短歌を考えているとき、子どもたちとかパパから話しかけられているのを何とかいなして、短歌に集中しようとするんだけどそれがもう本当に難しい。。短歌ってたったの三十一文字、しかしその三十一文字の言葉が光ってないといけないのだ。だから、どうかすると1000文字以上書くよりも難しい。わたしはといえば普段の会話もほとんどが「あれ」で済んでいるくらいぼんやりしてるっちゅうのに、そんな冴えた短歌なんて思いつくわけがないっすよ。お手上げ。
でも、この歌会っていうのがあることで無理やりにでも月に1首は短歌を考える。それが言葉の筋トレみたいなことになっていると思う。講評は、はっきり言ってマジで鋭い。熟練の優しい先生がかわいい目をして、ビシッと的を射抜く。自分が射抜かれてるっていうのに痛快だし、言葉を磨くって大事やなーと思うし。あと、言葉から感じられる「詩」っていうのがすごく重要ってことがわかる。
たとえばですよ、わたしはこの前「ケーキ」っていうお題にものすご苦しんで、次のような短歌を詠んだんですよね。

切るところだけ生ケーキそうすれば五万節約高さ三倍
(解説しよう!!ケーキがお題なので、ウエディングケーキのことを詠もうかなと思ったわたしは最近のウエディングケーキ事情をググったわけです。そうしたら切るところだけ生ケーキのイミテーションを使えば相当安くなるし見栄えがいいと書いてあったのだ。それで、言葉をまとめて短歌にしてみたんすよ)

…そんだら先生のYさんが「これは確かに笑えるんですけど、このままでは川柳みたいなもんですよね、詩が感じられないんです」というようなことを言った。ああー!!確かに!!
それから、わたしは短歌を考えるたびに「これには詩があるんかなーどうなんかなー」と悩むようになったし、人が歌う歌を聴いても「詩があるなぁ!!」とか思って尊敬するようになった。そしてこれは、文章にしてもそうなんですよ…
ただただ笑える文章というのも貴重なものだ。しかし世の中のめっちゃいい文章って、熟成した余韻みたいなのが漂ってる気がする、そういえば。そして、自分で考えて余韻みたいなのを作って貼り付けたって、決していい文章にならないのだ。余韻むずかしい。余韻ってなんなんだ。詩って、詩情ってなんだ?

考えても考えても分からないし、とってつけても上手くいかない。計算してもおかしくなるし、背伸びをしたら途端にダメ。上から目線でもダメ。下から目線すぎたら川柳になっちゃう。

っていうことで、いい文章を書きたかったら自分を磨くしかないんかなというところに行きつきました…え、いや、違うか。磨こうが磨くまいがいいものはいい、ダメなものはダメな気もする。
とにかく思うのは、それぞれが持ってるものがにじみ出てるのがよくって、それがいいとか悪いとか好きとか嫌いっていうのは受け手に判断してもらえばいいんかな。仕事の場合は文章から自分を消すけん、それとはまた違うけど。

ていうことで、明日の歌会がたのしみだ。わたしの提出する歌は…また詩情がないやつができてしまいましたが泣

※写真は本文とは全然関係ない金曜夜のとある街です

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