【詩歌の栞】8/13 夏の惑いに。「山と高原と湖の詩集/新川和江 編」
お盆です。お墓参りに行きました。
山の上にある墓地は大木が茂り、蝉の声がひときわ響きます。
アゲハやトンボ、カマキリなど沢山の大きな虫がいます。
墓場での殺生は戒められていますから、大きく育ちやすいのかもしれません。
さて、先日11日が「山の日」だったので、ふと思い立って新川和江さん編集の「山と高原と湖の詩集」を開きました。
集英社文庫コバルトシリーズの中で「愛の詩集」「若き日の詩集」「山と高原と湖の詩集」「花の詩集」とある中の一冊。
十代の少女を意識して編集しているので親しみやすく、中高生の頃によく読んでいました。ここから自分の好きな詩人をみつけるきっかけになったような気がします。
たとえばエミリ・ディキンソン。
この詩集、最近はあまり開いていなかったのですが、久々に手に取ると、若い頃には素通りしていた詩に目が留まったり、異なる受け取り方をしたり、と新たな気持ちで読むことが出来ました。
そして、冒頭に記載している新川和江さんの「まえがき」の中の一文が目に留まり、なんと時宜を得ていることか、と苦笑しました。
ここ数日、何かと気持ちがささくれており、漫画の一気読みなどしてグダグダと時間をつぶしておりました。
不惑をとうに過ぎて知命が近づいているにも関わらず、心の暗闇、嵐に振り回されるのも情けない限りです。
私は子供たちを愛していますが、「母親」向きの資質を持っていないということも残念な事実であって、常に悩みの種です。
上記のような詩も、いつでも息子(!娘ではない)を故郷で待っている素朴で豊かな地母神のような母のイメージを想起させます。
私自身も「母なるもの」へは、このような憧れと期待を抱きます。
しかし、私の現実は「母親だって地球を飛ぶ木靴を履いてやる」なのです。
縁があって私のところに生まれてきた子供たちが「母」に対してどのようなイメージを抱くのかを考えると身がすくみます。
それでも、今朝の新聞を読み、日航機墜落事故、集団自決、新型コロナウィルスで亡くなった方の葬儀などの記事を読むと、ただ、生きて共にあることを感謝し、ご縁を大切にしたいという単純な願いにいきつくような気がします。
この詩集の最後は、こんな詩でした。