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上町しぜんの国保育園 園内勉強会アーカイブ06

上町しぜんの国保育園の阿部です。
いつもアーカイブ読んでいただき、ありがとうございます。

第6回園内勉強会では、写真家の繁延あづささんをゲストにお招きしました。
今回のテーマは「子どもや命」。
参加者からの質問や感想をもとにあづささんとの対話を中心にして語り合いました。
このアーカイブでは参加者からの質問や感想、それに対する繁延さんのこたえをまとめています。

・ゲスト紹介
・繁延さんから
・参加者との対話から
・最後に
・次回予告

◎ゲスト
繁延あづささん
写真家。長崎に移住後、雑誌や鉱億の撮影で活躍するかたわら、ライフワークである出産や狩猟に関わる撮影や執筆に取り組んでいる。著書『山と獣と肉と皮』(亜紀書房)、『ニワトリと卵と、息子の思春期』(婦人之友社)など。

◎繁延さんから
○妊娠、出産
・妊娠するということの驚き
まさか人類がこれをやってきたと思うのをにわかに信じがたい…
・どんどん痛くなるなかで感じる「死の淵」
 そこに声をかけてくれた助産師さんの存在
 死を感じる心細さのなかで助産師さんだけは「分かってくれる」

○長崎での暮らし
・11年前に長崎に引っ越した。
・共同駐車場に向かう細道ですれ違うおじさん
 狭い道だから話さざるを得ない状況で話すようになり、猟師と知る。
 すると、次から様々な肉が届くようになった。
・肉になる前を知りたい、見たい。
猟師のおじさんについて行って猟を撮影する。
 →生きていると死んでいるということをまざまざと感じた。
・「ぜったい美味しくたべてやる」
 これって鬼みたい、でもものすごい熱量
・自分が体験したことだけど、家族に見せないと食べられない。
 家族に見せたことで「やっとおいしく食べられるぞ」と思った。

◎参加者の対話から
○出産の痛みのなかで助産師さんが分かってくれていると思ったのはなぜ?
 言葉だけあればいいのか?
→〈繁延さん〉
「痛いよね」と言ってくれた言葉
 死に向かっている(私が産むのではなく体が産むに向かっている)
 分かってくれている人の言葉だから救われた。

○保育園に通っている子どもも「この人は分かってくれる」と感じている。
 はじめて親と別れてやってくる子どもと似ている。
→〈繁延さん〉
子どもはここに染まっちゃいけない、流れに負けてはいけないという思いがあるのかも。

○母親が丸裸なのはもちろんだけど、その周りの人が丸裸な状態になれるにはどうやって撮っているのか?
→〈繁延さん〉
・なにかをしているというよりも、撮影する自分がいるということすらがどうでもよくなるような場が出産の場面。
・出産までの時間で様々な話(情報)を聞いていく。
・自分自身が、子宮筋腫ができた時に「産めないかもね」と医者に言われ、周りの女性が恨めしく感じた経験をした自分だから撮れるものがある。
・取り乱す姿は見えないものと闘っているように見えて、見とれてしまう。

○・どんな風にその場に「居合わせる」のか
→〈繁延さん〉
・後日顔を合わせると、共に戦った者という印象を受ける
・理性で向き合っているのとは異なる場面

○長崎での猟師に気になったからついていった、その「気になる」って何か?
→〈繁延さん〉
・「見たい」という欲求
・本人から聞いた言葉ではなくて、「見たい」
・現場には沢山の情報がある。
現場に身を置くことで自分は何を感じ、どう思うのかな?

○「見たい」という時には写真を置いていく時もある?
 写真を撮ることでより見えるようになる?

→〈繁延さん〉
・子どもの運動会などは一枚だけ撮って、あとは目で見るということがある。
・「見たい」の延長に、自分が「あ!」と思ったことのメモ代わりにその風景を撮る。

○感情を写すというのはすぐにできるのか?
→〈繁延さん〉
・感情を写すというよりも、そのことを思い出すために写す。
・分からないという自覚があるときに撮っていることがある。
・子どもって分からない。

○そこまでいく?!というところまで「見たい」と思っている。
→〈繁延さん〉
「命」と思っていないけれど、自分が「見たい」と思っていること。
子どもがすぐに「どうやって人は死ぬの?」と質問するのと同じ感覚。
みんな「死」について知りたいと知りたくないがせめぎ合っている。
生まれる、死ぬという輪郭部分を知りたいと思う。

○「肉のもとには生きた目がある」という言葉が印象的だった。
○生を感じる肉を扱うことであづささん自身、家族に変化があったか。
→〈繁延さん〉
・私自身はすごく強い変化があった。
 美味しく食べられないと悔しい、嫌々食べたくない。
・私がやることは美味しくするということで、子どもに残さず食べなさいと強制しない。
 嫌々食べるということほど失礼なことはないと思っているから。
 子ども自身は、食べるうえで大事にしていることは?という食育の質問に「美味しく食べる」と書いていた。

○子どもたちに食事を出しているなかで「ありがたい」という気持ちを感じにくい。
 どうしたら美味しく食べるぞと思ってもらえるのかと考える。(上町・栄養士)
→〈上町・青山〉
保育園というなかでの食になると、平均栄養的になる。
献立を変えたいと提案した時に、献立を立てないことが上町のキッチンから出た。
制度で数値化することで安心安全と言うけれど…
→〈繁延さん〉
・同じ形で同じものになると工業性が生まれる。
養鶏をしているから、鳥インフルエンザが出たら安全のために全て殺処分しないといけない。
大型養鶏場を基準にしているのに「安全」ということで全て適用されてしまう。

○食育食育…というけれど、ドングリは食べてはいけない、魚の骨は全て取られている。
 食の自然から離れて行かないにはどうしたらいいのか。
○獣を殺すのは怖いのに、魚は抵抗なくさばいて食べる。
 命の価値にランクはないのに、食べられてしまうことがある。

→〈繁延さん〉
・「殺す」ということが悪いことだと思っている。
・肉は食べ物、命と思っていたけれど、山に行って衝撃的だったの「殺す」という行為。
 他の生き物もやっている行為であって、悪いことではない。
 誰でもやっていることだけど、知ったら罪悪を感じるから知らないで食べたい。
・肉がなぜそうなったかということを見られない元々作られた社会に途中から生まれた私たち。本当に人はこれを見たくないのだろうか。
→〈上町・青山〉
・監査のなかで人を信じていないこと(餅を食べるな、男性保育者を一人にするななど)
 現代では子どもが大人の恐怖によってつくられた漂白された世界を生きている。
→〈繁延さん〉
・自分から子どもに見せてやろうという気持ちはない。
 前もって無いようにされていた世界はおせっかいがあるのではないか。
 傷つくことをさせないことは失礼
・『山と獣と肉と皮』の表紙の写真から不快な思いをする人がいるから…と出版営業やテレビ局から言われた。
 マイナスの感情へのブレーキを掛けられないから否定するのではないか。

○ブッタが老いや病、貧乏などに出会った時に、修行に出た。
 今の社会はどうだろうか?
 専門性や制度というのはその枠に入れちゃえば安心とするけれど、それは見ないようにしているということなのではないか。
→〈繁延さん〉
・ひと続きで見た時に初めて見えてくる、分かることがある。
・「主婦で書く」と決めている。
 主婦って世の中で軽く見られがちだが、家のことをすることは生きることに直結しているすごいことなのだと思っている。
自分の目線が他の人と異なるとしたら、その意識があるかもしれない。

○生きた肉に出会った時に、「絶対美味しくたべてやる」と思えた繁延さんと、見たら食べられなくなった自園の保育者、その違いは何だろうか。
→〈繁延さん〉
・全ての感情が一人ひとり異なる。
・そのものへの出会い方。
 殺すのがかわいそうと思うのは、殺される時に自分を殺される側に入れ替えて想像しちゃう。
・人も昔は狩られていた側、記憶のどこかにあるのではないか。
・私は、心が傷つくような経験をしたのに、躰をあけたときに感動、美しさを感じる。
・やってみないと分からないこと。

○食料として殺すような場面に出会った時に子どもに知らせたいと思うかどうか。
→〈繁延さん〉
・こんな風に思ってほしいということは思っていない。
・主婦の立ち位置からしか書いていない、「私はこう思ったよ」ということを書いた。
・私の「知りたい」は子どもに近い。
 子どもと一緒にいることで入り口、穴がたくさんあるように思う。
 一番大事なことに関心を持っていると思い、リアルに何かをしなくとも一緒に考える。

○「写真」の持つ迫真性について
→〈繁延さん〉
・隠されているから見たいと思う。

○昔は、客が来たら鳥をしめるというのが日常だった。
 しかし、今その文化がないなかで子どもに伝える必要があるのだろうか。
→〈上町・青山〉
・教師のエゴとして、教育の教材として「命」を使っていいのだろうか。
 「伝えたい」というのは大人の作った物語にならないだろうか。

○自分も沖縄で自給自足をしているときに鶏をさばいた。
鶏をさばいたときで印象に残っているのは、鶏の首を折って切るその感触。
様々な国で過ごす中で、裕福、普通、貧困などを見た。
人間が食するもので植物と肉以外で食べられるのは塩と水しかない。
→その時感じたことは、生きなきゃいけない、食べなきゃいけないということ。
・食べられる人と食べられなくなる人の違いには、最終的に命を止めたかどうかがあると思う。
→〈繁延さん〉
・自分で動けて考えていける、力のある人だけが生きられるという強者しか生きられない社会にならないだろうか。

○行き来している感覚とその場に浸っている感覚。
 子どもと出会うなかで「わからない」と思いながら揺れ動くことに近いのではないか。
→〈繁延さん〉
・その場にいるときには「分からない」自分の状態でいる。
 文章に出ているのも、「分かった」ということはなく、今ここまでわかったというもの。
 その後、時間が経つなかで分かることもある。
 分からないと分かるが揺れながら、関係も居方もカチッとしないまま、保留にする。
 「分からない」が私のデフォルト。

◎最後に
今回、繁延あづささんの話のなかで私が印象に残っているのは、「知りたい」という感覚についてです。子どものときには当たり前に持っていたこの「知りたい」という欲求。しかし、大人に近づくなかでその感覚を忘れ去り」、蓋をしていたのだと改めて気付きました。そして子どもと過ごすことでその世界の入り口や穴を見つけ直したいと思いました。

◎次回予告
次回は、世田谷ハーモニーの新澤克憲さんをゲストにお迎えします。
ぜひ、おたのしみに!


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