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『麒麟がくる』でも注目された筒井順慶の生涯

3月も最終日、皆さんどうお過ごしでしょうか。

桜も咲き始め暖かくなってきましたね。

さてそんな今日は、去年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場し

俳優、駿河太郎さんが演じた筒井順慶が生まれた日です。

余り注目されない筒井順慶ですが実は、織田信長の大和(奈良県)攻略に

とても重要な役割を果たします。そんな筒井順慶の生涯を見てみましょう。

出生から家督継承

筒井順慶は大和国の大名、筒井順昭の子として1549年生まれた。筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化し、筒井城を拠点に戦国大名化した。母は大方殿。1550年に父が病死したため、叔父の筒井順政が後見人になりわずか2歳で家督を継ぐ。1559年から四国の大大名三好家の家臣、松永久秀が侵攻してきて厳しい情勢になるなか1564年に叔父の順政が死去してしまう。翌年の1565年8月には、三好家の重臣、三好長逸、三好宗渭、岩成友通(三好三人衆)と松永久秀が13代将軍足利義輝を殺害(永禄の変)したが、11月に三好三人衆と松永久秀は決裂してしまう。松永久秀は急遽、後ろ盾を無くして基盤が揺らいでいる順慶の居城(筒井城)に奇襲を仕掛け、追われる(筒井城の戦い)。順慶は一族の布施左京進のいる布施城に逃走した。

筒井城奪還

巻き返しを図る順慶は1566年になると、松永久秀と敵対する三好三人衆と結託する。5月19日に久秀は大和を通過し河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀との間で戦闘が起こった。順慶はこの隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどし筒井城を奪還した。1567年には再び三好三人衆や篠原長房と結んで奈良の大仏殿を占拠し要塞化して、多聞城の久秀と対峙した。10月10日久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ちるが久秀側が勝つこととなる(東大寺大仏殿の戦い)。この頃、織田信長の台頭が見られ、1568年には足利義昭を奉じて上洛、三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され足利義昭が15代将軍に擁立され、畿内は信長に平定された。松永久秀は1566年には織田信長・足利義昭と誼を通じていたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞してしまう。そして、松永久秀は幕府の直臣となり、大和一国を実質支配することを許される。久秀は筒井城に迫り、順慶は叔父の福住順弘のいる福住城へと落ちのびる。10月10日には、信長の応援軍2万が来軍し、両軍で大和を制圧し始める。福住城にいた順慶だが、1570年に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とし、さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合うための準備する。一方、久秀は同年12月に敵対していた三好三人衆や阿波三好家と和睦を成立させ、順慶と三好三人衆による共闘体制は瓦解することに成功してしまう。1571年5月になると松永久秀は、足利義昭方の畠山秋高や和田惟政と申し合わせ敵対を企てたとして自らの指揮下にあった安見右近を自害させ、その居城・交野城を攻める。これに呼応して三好三人衆も畠山秋高の守る高屋城を攻め、翌月には三好義継もそこに加わった。さらに7月には久秀は義継や三好長逸とともに和田惟政の居城・高槻城を攻めた。これに対し久秀に危機感を覚えた足利義昭は筒井順慶に接近し、同年6月、九条家の娘を養女として順慶に嫁がる。順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手、7月3日に完成した同城は松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。勢いに乗った松永久秀・久通父子、三好義継らの連合軍は、8月4日には辰市城に迫り大規模な合戦に及んだ。しかし順慶は、これを迎え討ち、松永軍に大きな被害を与え、久秀の甥や重臣の竹内秀勝らを打ち取り首500を挙げた。敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。

織田信長に臣従 
                       

 1571年10月25日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、同年11月1日に光秀・信盛の仲介で順慶と久秀は和睦する。1572年4月、三好義継は久秀らとともに交野城を再度攻囲し、信長は軍勢を送りそれを救援した。これにより久秀と信長の関係は破綻し、以後織田方の順慶と松永久秀は衝突を繰り返していく。この年の12月には武田信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を破って信長との対立を決定的にし、1573年2月には足利義昭も信長を敵として挙兵するなど、信長やそれに与する順慶は劣勢に陥ったが同年4月には武田信玄が病死し、7月に義昭が槙島城の戦いで信長に敗れて京都を追放され、それを匿った三好義継も11月に信長に討伐されると(若江城の戦い)、12月、松永久秀も多聞山城を取り巻かれ和議を申し込み、同城を明け渡す条件で降伏した。1574年正月、久秀は岐阜城に伺候する。同じ月に順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁し、3月23日、信長の臣従に際しその証として母親を人質として差し出す。その後、順慶は信長傘下で参戦する。1575年2月27日、信長の娘か妹を妻に迎える。

大和一国を任される

1575年3月に原田直政が大和守護に任命されると、その与力に任命されるが原田は1576年5月3日、石山本願寺戦の三津寺砦攻めで戦死する。同年5月10日、信長により明智光秀が使者となり「大和一国一円筒井順慶存知」として大和国支配を任される。同時期に明智光秀の与力となる。5月22日には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。5月30日、光秀が石山本願寺戦の陣地内で重病となり、一乗院で坊衆7人に祈祷させている。1577年、順慶は他の諸将と共に雑賀一揆の反乱を鎮圧した(紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。10月10日、遂に城は陥落、久秀父子は切腹または焼死した。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献した。久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったとされる。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。久秀父子の滅亡もあって、1578年に大和平定が果たされた。1580年、居城を筒井城から郡山城へ移転する計画を立てていた所に、8月に信長より本城とする城以外の城の破却を促す命令が出る。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した郡山城に移転した。筒井城から郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年9月8日、信長が大和一帯の差出検地を順慶に命じ、12月まで明智光秀と滝川一益が奉行として派遣されて実行している。11月7日付「国中一円筒井存知」の信長朱印状で正式に大和一国が任され、郡山城入城が言い渡される。

本能寺の変後


1582年6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後に味方になるよう誘われた。順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。6月11日には、順慶が郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。結局、光秀は6月13日に山崎での戦闘の敗走時に、落ち武者狩りに討たれる(山崎の戦い)。6月14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた。6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。1584年頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。筒井家は定次が継いだ。


人物

順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。


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