本当の自分探しとか無駄!それよりも大事なのは無限の自由から何を選択するのか?
第一章|本当の自分なんてどんなに探してもどこにもいないよ!って話
よく“自分探しの旅”とか、“本当の自分のあるべき姿”とか言うけれど、そもそも自分(統一された自己)という感覚は、脳-神経-感覚系が生み出す機能的な事象に過ぎないんだよね
しかもそのプロセスやメカニズムは未だに完全解明には至っていない
現在、最も有効性の高いと思われる見解は、動物の系統発生的進化の過程で、外界から来る感覚刺激と自己が生み出す感覚刺激を区別する必要性が生じたというもの
それができないと、複雑で連続的な動作や混成的な感覚統合や、その上に成り立つオープンエンドな連合学習ができないので、一瞬一瞬変化する環境の中で、適応的な反応をするのは不可能なのだ
ま、小難しい話しはここでの核心にあまり関係ないから一旦置いといて、重要なのは次の事実
すなわち、『この世の全ての事象には意味が存在しない』ということ
納得できない?
でも知的怠惰に陥って切り捨てる前に、もう少しこの命題について10分でいいから本気で思考を巡らせてみてくれ
そうすれば誰でもこれが事実だって気が付けるはずだから
『この世のありとあらゆる全ての事象には、究極的には意味も価値も目的も存在しない』
…だよね⁉
え、、まだ納得できない?
確かに、あなたがやってる仕事は誰かの人生に貢献している、だから無意味じゃないって言えるかもしれない
自分の母親が死ねばめっちゃ悲しいし辛い、だから無価値じゃないって言えるかもしれない
でもその文脈で使う意味や価値は、カテゴリー化された枠組みの中における関係でのみ生み出される2次的な幻想と言えるよね
もしこの地球上の全ての知的生命体が自分以外いなくなったら、自分が存在する価値(と今まで思っていたもの)は一瞬で無意味にならないかな?
だから、生命システムの誕生という事象にも、人間がもつ感情的経験という事象にも、そして自己感覚という事象にも、もともとそこにあると主張できる本質的な意味や価値や目的は存在しないんだよね
故に、どんなに探しても、どこまで深くまで掘り下げようとも、本物の自分に辿り着くことなんてあり得ないのだ
だってそんなもの“そもそも存在しない”んだから
第二章|生きたい!死にたくない!って思うのはなぜか?って話
とはいえ、僕も含めおそらく全ての人が、特定の事象に特定の意味や価値や目的を感じるよね
この“感じ”は嘘偽りのない生の感覚だ
ではこの感覚はいったい何なのか?
結論から言うと、それは生き延びて(生存)、生き繋ぐ(繁殖)ために有効な機能的メカニズム
つまり脳が果たす生存機能ってこと
先程説明したように、カテゴリー化された枠組みの中では、すでに組み込まれた価値や目的は存在し得る
私たちホモサピエンスを含めた全生物という枠組み内では、生存と繁殖こそが絶対不滅の目的になっているわけ
そしてこの限定的に組み込まれた目的は、入れ子式(再帰的)に積み重なりながら無限の価値や意味を生み出してくことになる
生存確率を上げる事象にはプラスの価値が、反対に、生存確率を下げる事象にはマイナスの価値が付与されるといった具合に
で、この事象の価値化を、私たちは“感情”として意識的に経験することなるんだよね←ざっくり言うと感情の進化論的役割がコレ
だから私たちは生きることに喜びを感じ、死を前にすると恐怖を感じるのだ
第三章|自分が何者なのか?は自分で自由に選択するものだ!って話
さてここから核心に迫っていこう
ここまでの話しを簡単にまとめるとこんな感じ
[そもそもこの世の全ての事象に意味なんて存在しない。しかし私たちの脳はそこに意味や価値を後から付け加える]
ではこの結論から導き出せる真理とは何か?
“全て自由”
ま、細かく言うと全てっていうのは本当は誤りなんだけど、ここでは全てって言っても問題ない
どうゆうことかというと
系統発生の進化的過程において、生物は種ごとに固定された無条件反射やバイアス、アフォーダンスをいくつも携えて生まれてくる
例えばヒトの場合、ヘビのようなニョロニョロした物体を見ると無条件に逃避反応が引き起こされるし、ドロドロ・ベチャベチャした物体には無条件に嫌悪反応が引き起こされることが分かっている
また赤ちゃんは、一人で立つこともできないくらいの年齢でも、おもちゃが急に空中に浮いたり、あるはずの物が無くなっているのを目撃すると、目を見開いて注意を向けることが研究から示されている
(要は物理法則をある程度知った状態で生まれてくるってこと)
この意味で解釈すると、“全て自由”という僕の主張が間違っていることは認めざるを得ない感じがする
でも、今説明した生まれつき脳に固定配線(ハードワイヤード)された系統発生上の無条件反射は「無意識」なのよ
無意識の神経プロセス、つまりどの種類の感情を意識的に経験するかの選択権は僕らには与えられていない
(過去に一度だって、自分がどの感情を経験するのか選択できたことないでしょ?w)
だからそこは無視して良し!
重要なのは次
その感情を伴った意識的経験を無条件に受け取った後に、それについてどう解釈するかの権限は自分自身の手にないか?ってこと
しかも、その感情を引き起こすに至った事象がいかなる種類のものであれ、この世の全ての事象(出来事)にはもともとは意味も価値も目的もなかったよね
が故に“全て自由”でしょ⁉
本物の自分とか、自分が本当にやりたいこととか、自分の存在意義とか、後から勝手に好き放題に決めちゃえばいいと思うんだよね
本物の自分なんて初めから用意されていないんだから、探してもマジで無駄
自分とは、探すものではなくて、選択していくものなのだ
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