読書録.2

青空文庫で短編を読み漁るのが静かなマイブーム。ソラリというアプリを使っています。文字の大きさや行間の余白など読み易く調節できるところと、読んだ本を “本棚” に並べておけるところがお気に入り。

『恋人たちはせーので光る』 最果タヒ

詩のことばを読むときは、散文に比べ、ことばが流れるその瞬間、瞬間を強く意識させられるように感じる。耳に触れる音の連続をたのしむことを音楽と呼ぶとするなら、音楽に近いものだ、と思う。
最果タヒさんの詩は、その極致だと感じた。初めて読んだとき「読みかたがわからない」と戸惑ったのを覚えている。うまく掴めなくて目が滑るようだった。鮮烈な印象だけを残して去っていく。まぶしくてするどい、光のようだ。一行、一行が、肌に焼きつく感触がたしかにあるのに、読み終えた途端にすっと消え去ってしまうのだ。ワンフレーズ抜き出したらそれはもう違ったものになってしまう、空気感のようなものを留めるすべとしての「“ギリギリ、ことば” な何か」の集まり。何気なく交わされて内容なんかすぐ忘れちゃうのに、何年経っても妙に記憶に残っているやり取り、のような何か。
表題作『恋人たち』が好き。タイトルでもう撃ち抜かれていた。ふたり、誰でもなくなって、せーので光りだす。

『海の霧』坂口安吾

降り続く雨、海の霧。不安と退廃。
見通しが立たず無気力になっているときのあの解析度が落ちた視界をそっくり体験した。

酒場の客の描写として “日本語を喋る日本人” と書いてある箇所がある。どこか違和感のある言いようである。話の内容もその人の様子も全く入ってきてはいないのだ。「日本語を」喋る、という表現には意味がわからない異国の言葉を聞くような距離も感じる。感情を動かすことなくぼんやりと景色を眺めるような表現が散りばめられている。

雨の日に、矢張りボヤけた黄昏がきた、僕は殆んど無意識に湿った洋服を着込んでしまう。部屋も体躯も妙にドロドロと湿っぽい

ここに、外の雨を遮る家の中に身体がある、といった構図はない。部屋も身体も同じ湿っぽさに浸食され、彼は (本来雨風から守ってくれるはずの) 家を飛び出さずにはいられなくなる。このあたりの、外側の世界との境界の曖昧さ。

僕は何物にも溶けて紛れるヤクザな外皮を持っていた、そして又何物にも溶けようとしない、一つの頑なな、沈殿物に悩まされている。

不安とは「これがわたしだ」という枠組みの確かさを失った状態だと考えている。問題なく過ごせているときは、外の世界がどうであれ、考えや行動は自分の意思で選ばれるものである。しかしそのバランスが崩れたときの、まとまらず拡散する思考、自分とかいう確固たるものなどなかったのではないかという妙な心細さ、諦め。情景描写と心理描写とがどろどろに溶け合うような文章が、溶け出すような侵食されるようなあの感覚を思い起こさせる。

僕と鮎子が、死にたくはないねえ……まだ、生きていたいよ、ねえ…… と言い合っては全くその通りだとばかみたいに安心しているという場面が好き。真っ当さを失くしきれないでいることの、苦しさと、呆れるような希望。

読んですぐに感想を書こうとすると微妙に消化不良な感じがあってそわそわする。人に紹介したりできるくらい言葉が熟するまで沢山時間がかかるし、かけたいと思っている。
だけどこうして、読みながら思い浮かぶことを敢えて書き留めようとしてみるのもこれはこれで面白いかも。言葉にしてみることで気づくことも結構あるかも。瞬発力鍛えたい。そんなことを思った二週目でした。