表現とは
今朝友人が、対話している時のニュアンスはどんだけ頑張っても文字だけでは替わりにならない、ということをXに書いていて、やり取りをしました。
友人などお互いを知った関係ですら、文字だけのやり取りだと誤解が生じることがあります。
実際のその場の空気感、表情や身振り手振りで細かなニュアンスが届きやすいのが対面。
これは一対一ないしグループで限られたやり取りの中の話なのですが、
普段のこういったnoteとか、SNSの投稿とか、実際顔の見えない不特定多数の方々に発信するのも非常に難しいと思っています。
もちろん語彙力の問題などもあります。
コミュニケーションは簡素化され、色々な人と繋がれるようになりました。
メリットも大きいですが、デメリットも多くあると思っています。
そして現代のスピード感。
そもそも簡潔(短い)な文や、切り抜き動画が流行るように、長文や長尺のものは、飛ばして読んだり見たりされるようになりました。
大事なことはわかりにくい。
これは、私の尊敬する京都の使い捨て時代を考える会槌田 劭(つちだたかし)先生の言葉。
槌田さんは、大切なことを話そうと思うととてもわかりにくい、時間がかかると仰っていました。
槌田さんと話す会というのが定期的にありますが(今は京都ではないので参加できませんが)、哲学的でとても長尺です。
頭もフル稼働させなければいけないですし、とっても疲れます。
でも、毎度発見があり、とてもおもしろくて、京都にいる頃はよく参加していました。
何が正しい間違いかなんてすぐ答えが出るものではありません。万人にとっての正解も万人にとっての間違いもないからです。
でも、現代はスピード優先されることが非常に多い。白か黒か。みんな答えをすぐ知りたがる。
わかりやすい表現に飛びつき、考えた気になる。
文章の一部を切り取って攻撃する。
論点がすり替わったり、本来の目的が変わってしまったり。
そして、考えなくなる。
考えているつもりになってしまう。
処理しきれない情報の波に埋もれて。
それが本当に自分の考えなのかどうかすら、もう気にならない。
それでいて、シンプルなことが大層複雑化したりして、一体何をやっているのかわからなくなったりもします。
余白、余韻、寄り道、みたいなことって私はとても大事だと思っています。
お茶でもそう。
先日、冷茶にする際に10gを計るのがめんどくさいと言われたから10gをお茶パックに入れて販売したら?と言われました。
需要を考えれば、それが正しいのかもしれない。
ホットの場合もそう、目安として裏に書いていますが、きっちりでなくてもいいんです。
確かに初めての時は計った方がわかりやすいかもしれません。
が、濃いのが好きな人もいれば、薄めが好きな人もいて、それぞれの好みで淹れてもらえばいいと思っていますが、どうやらそのハードルが高いようです。
アドバイスくれた方は、塩二つまみでも嫌がられる(わからないと言われる)と仰っていました。
全部もう出来ているものが欲しい、ということです。
簡易化して得られるメリットも大きいのもわかりますし、そこに需要があるのもわかります。
でも、今日はちょっと濃かったなとか、渋かったな〜とか、そんな日があってもいいのでは…?と私は思っています。
冷茶の場合は明らかに(誰の目から見ても)多すぎる少なすぎる以外は失敗ないですし。
そういう余白の部分も楽しんで欲しいので、当面はティーパックやお茶パックに詰めて…ということは考えていません。
と、またしても表現から話が逸れました。
文章を書くということも表現。
そこにも、余白や間合いが入ったものが好きだし、自分もそういう表現ができたらいいなぁと思ったりしています。
そして、私の場合語彙力の問題も大きいですが、言葉で表現できないものというのもあります。
この心のぶわっとしたものを、どう表現したらいいのか。
それは、人によって絵なのかもしれないし、写真かもしれない、音なのかもしれないし、映像や造形かもしれない、味かもしれない。
言葉にすると、文字が邪魔になることがあります。
この心そのものを表現する方法…
私は元々美術の学校に行っていたのもあって、表現したい欲求というのが割と強めにあると自覚しています。
絵もまた描きたいな〜と思いながら、私も漏れなくスピード社会に呑まれていて時間を作れていません。
いや、本当はスマホを触っている時間にきっとやればいいんです。現代病にかかっています。
散々色々書いておきながら、我がフリってやつです。
それに言い訳してやらないってことは、そもそもそこまで…なのかもしれないし。
ただ、心を表現するということは、それが正しく(自分が思っているようにという意味での)伝わるかはまた別の問題。
それは受け取り手によってまた変わるものでもあります。
それはそれでまたおもしろいものだと思いますが。
心の表現ではなく、コミュニケーションという現実的なことでいくと、やはり私は長文になってしまう。
ちゃんと伝えたいと思ってしまうと、余白の部分まで書かないと、自分が納得できないからです。
SNSでも長文になってしまう。
時代と逆行しています。
でも不便の方が便利よりだいぶいい。(たま)
今年は余白を見つけて絵も描こうと思います。
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