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4月3日

生きる中で感じる否定感や不穏さなど、そのように感じる事やそれらを発露する事は肯定されずらい。しかしそのどれもがその人の感性としてあるもので、琴線に響き感じ入る事なのだと思う。心に響き感じて動いている。その感動こそがその人が生きている生の響きそのものだ

僕はそのように在る生を肯定したい

他者の否定感や不穏さを肯定することによって、事後的に自分を肯定(由し)できるようになるという逆説的アプローチもあるのかもしれない

また自分(他者)を信じない事と、自分(他者)に期待せず託すことは両立する

全ては過去となり自分は未来へと歩んでいるので一貫性はなく変容し続けるものだ

自分を否定的に見るというのは、極端に自分を評価し過ぎているように思える。全ては0か100ではなく間に存在する。今日の自分は駄目に思えたとしても明日の自分に期待せず託すだけでいい。
極端に自分を評価したり、自他に一貫性を求めるというのは窮屈な生き方に見える

一貫性があるというのは一見強そうにも見える。しかし岩のように頑ななものは風雨に削られ脆く崩れてしまう。他方において柳の木はしなるが枝葉は風を受け流し、木の根は柔らかくとも大地を固め治水の役割も果たしている

しなやかものは強く在り、強弱は見た目でなく在り様にある

自分が自分に否定的であること肯定する。しかし否定的であることに執着しない。これは両立可能だと思う

むしろ自分に肯定的なものよりも射程は広く深く、しなやかな強さがある。そこには自分を由しとするゆとりがあり、より遠くまで自身の歩みを進められる可能性を感じる

また自分を由しとできていれば何かに依存する必要がなくなる。依存の無い状態にはある種の孤独感があれども孤立はしていないので健やかだ。独りでいることは他者の言葉を聴くために必要な距離感を生む

対話に必要なのは借り物の言葉でもアドバイスでもない。必要なのはあなたの話とわたしの話だけだ

このように思えるようになったのは自分が何に嬉しさや喜びを感じるのか、自分の事が少しわかるようになったからだと思う。写真や音楽、言葉など何でもいい。世界を生み出すことだ

僕は自然を観た時や手を動かした時に感じるリアクションが嬉しい。世界と繋がったかのような実感は何ものにも勝る喜びがある

僕はそのように在る生を肯定したいと思う

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