喫茶間昧/松井貴之

喫茶間昧 人の間、時の間、空の間は曖昧で存在なく変わりゆくもの。あけぼののように変わり…

喫茶間昧/松井貴之

喫茶間昧 人の間、時の間、空の間は曖昧で存在なく変わりゆくもの。あけぼののように変わり得る"間"に関わります

最近の記事

4月3日

生きる中で感じる否定感や不穏さなど、そのように感じる事やそれらを発露する事は肯定されずらい。しかしそのどれもがその人の感性としてあるもので、琴線に響き感じ入る事なのだと思う。心に響き感じて動いている。その感動こそがその人が生きている生の響きそのものだ 僕はそのように在る生を肯定したい 他者の否定感や不穏さを肯定することによって、事後的に自分を肯定(由し)できるようになるという逆説的アプローチもあるのかもしれない また自分(他者)を信じない事と、自分(他者)に期待せず託す

    • 3月10日

      朝起きて外へ出ると刺すような寒さはなく涼しさを感じる。仕事へ行く道中の景色も変わりゆき、梅、桃、木瓜に続いて、今朝は咲き始めた木蓮を見かけた。過ぎゆく時は花に溢れている。 今日はお店に着いたと同時に鍵を忘れ物した事に気付く。きっと昨日着ていたコートの中に入れっぱなしにしていたに違いない。その旨を連絡すると案の定そのようだった。 ここで途方に暮れても仕方がないので時間潰しに近所の珈琲屋さんへモーニングを食べに行く。近所に行きつけの珈琲屋さんがある有り難さを噛み締めながら、い

      • 立春の梅に祈る

        ただ健やかであることを祈りたい。 今日2月4日は立春の日。二十四節気は立春からはじまり、新しい一年の始まりを告げる。この時期に咲く花といえば梅だ。 梅にまつわる言葉はいくつかありその中でも好きなのが「百花の魁」と「好文木」だ。百花の魁はその年のどの花よりも先だって咲くことを言い、先駆者のことを百花の魁に例えたりする。好文木は中国の故事にちなんだ別名で「文を好む花」という意味を持つ。 また梅は病気に強く無駄な枝を切ってやらないと樹形が崩れてしまい、よい花や実がつかなくなって

        • 素直さは大事だ。

          改めて言うまでもない。素直さは大事だ。 周知である当たり前の事に気づくまでに三十数年もかかってしまった自分を大変愚かしく思う。 愚かさからの学び、そして自戒としてここに残しておきたい。 素直さとはなんだろうと考えた。 今自分が思っていることや感じていることを発露すること。規範や道徳といった意識によって抑制的にならず自身の小さな欲望に耳を傾けること。 これらの通りに生きられればよいのだが、これがことのほか難しい。 過去にもこのように書いている。 現実には数多の人が利害関係と

          デザインについて備忘録

          建築からすっかり身をひいてもたまには手の届く範囲でちいさな物をつくったりする。 ひさしぶりに図面を書いているとかつて恩師に言われたことを思い出した。 「顧客の要望やマーケティングの結果をまとめる事をデザインと呼ぶ人もいるけど、そもそも僕たちが生み出そうとしている"物や事"ってなんだろう?って根本から考えてデザインした方が面白いよ。まだ言葉になっていない現象を露わにするほうが面白いよね。」 正直むねに響いた。 これは前者の編集的なプロセスを否定している訳ではなくて、大な

          デザインについて備忘録

          1月7日

          働き過ぎて疲弊してしまっては本末転倒なのでこころを解せる場所で時間を過ごす。そうすると自然とまた走れるようになる。ひとの居場所をつくるために、ひとの居場所にいること。大事にして行きたい。

          12月30日

          つくること、表すことの楽しさや喜びは何ものにも代え難い。それに没入夢中になっている時は世界でひとりぼっちだ。その世界では孤独だけれど高く低く、深く浅く、大きく小さくどこまでも広がっていく。とても自由で幸せなことなのだと思う。

          12月25日

          大げさな言い方になるけど何かをつくるという行為は、まだ世界に存在していないことを実現させることと同じだと思う。 それは日常的な作業やルーティンではない。 見たことのないもの、触れたことのないもの、未知との遭遇はいつも不安だ。 しかしそこには不安と引き換えに自分がつくりたいものをつくる自由、そしてときめきと躍動するこころがある。 想像することはどこまでも自由であり実現することで自分を由しとできる。 想像する自分もまた自由で豊かだと思う。

          生きること

          生きること、それ自体を美しく感じられない。 それは理不尽な挫折に満ち過酷で愛することもまた人を打ちのめす。 幾度も絶望の淵で堪え、実現困難な海で足掻き生きればならない。 それでもなお、詩が過酷な生や愛に対してなし得ることがあるとすれば、路傍に転がる石のように見向きもされず、忘却されゆく無名の生や刹那的に煌めく夜を救うもの。 言わずもがな明瞭な救いは存在せず詩は無力だが、偶さかの希望に満ちた日を頑なに抱きしめたい。

          12月12日

          予定も無いし気まぐれにお店でも開けるか~とか思ってたけど、どうにも元気が出ない。寸前までグダグダと迷い、這う這うの体で逃げてきた。 どうにも今日はコーヒーじゃない。コーラフロートの気分だなと思い、グビっと摂取する。 満足したからか珈琲も飲みたくなり、ついでにチーズケーキまで頼んでしまった。 我が事ながらなんとも単純に元気になるもんだと呆れてしまう。 たまには誰かに淹れてもらった珈琲が飲みたくなる時もあるもんだ。

          今日も生きている

          時間も世界も目に見えるものではない。 時間も世界も僕の認識にすぎず実体を持たない。 それにも関わらず、常に時間と自分を取り巻く世界を気にしながら生きている。 それは変化の濁流に飲み込まれぬよう時間や世界を捉え、無理に安定させようとしているのかもしれない。 常に自分も時間も世界も変わり続けている。 喜びを分かち合ったことも、嬉しかったことも、傷つき悲しかったことも、許せず憤ったことも。色付く葉が舞い落ち吐息が白くなるように、全ては変化し流れていってしまう。 「だから全て

          12月5日

          誰しも家でも職場でもない居場所だったり、丁度良い距離感や塩梅で話せる、利害関係の乏しい赤の他人が必要だと思う。 ずっと同じ場所、同じ人といるとどうしても閉鎖性を帯びてしまうので良くも悪くも話せなくなってしまう。 何処どこの、誰々の誰々さんではなく。 あなたが、あなたで在るだけ居てもいい場所。 どこかで開放性を発揮できた方が健康で自身の心地よさを担保していられるだろうなと、そんな場所を常に持っていたいと思う。

          12月2日

          その場で起こる圧倒的な現象を全身で受け止める。自分は圧倒的な瞬間に立ち会っているにすぎず、能動的に"撮った"とは思えない。"撮れていた"が実感に近いように思う。またこのような時に世界そのものに触れた気がする。しかしそれは触れたように感じた瞬間に手から溢れ落ちていく。掴むことは叶わない。どれほど力を注いでも世界を理解することは叶わない。なぜならば自然は矛盾を孕んでいる。そもそも自然には矛盾なとどいうものが無い。それらを引き受け、叶わない中で生きること。理解したふりを手放して世界

          11月30日

          旅先では忙しくあちこちを巡らず心地良い場所でそこに在るものを落ち着いて愉しむ 数年ぶりに訪れた地では冬支度で真っ最中の木立がゴウゴウと風に揺られていた 目の前に広がる曇空の風景を眺めている内に自然と目に映るもの見えるものが変わってゆく 森全体ではなく個々の木へ焦点を合わせると彼らが大きく動いているのがわかる 彼らもまた次の季節に備え、装いを新たに変わり続けている

          手で触れること

          以前医療職の友人と話していた内容を思い出し、面白かったので備忘録としてここに残します。 ひとは手を以てして他者を"壊す"ことができるが、他方において"癒す、治す"こともできる。癒しや治すことにおいて"触れる"という行為は欠かせない。しかし直接的に他者に触れるのは危険や責任を伴う。それらを超えて他者に触れざるをえない職能は尊いように思える。 他者の身体に触れ手を通じて相手の機微や反応を感じ取る事は、自身の手を通じて他者の身体へ入り込んでいるとも言える。そして手を以て他者の言

          11月17日

          ヤカンがストーブの上でシュンシュンカタカタと鳴り、隣ではグラインダーが音をたて珈琲豆を粉に変えている。グラスに水を注ぎコーヒーカップをカチャカチャと置く音が小気味よく響いている。