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用水路の守護霊

 恋人が死んだ。ちょうど一年前の、夏の日だった。

 格子の向こうでは一周忌の法要が始まっている。蝉の声と読経の声が重なる。どうやら近くの木にとまっているらしい。
 首筋を汗が滑り落ちる感触があった。格子の向こうには黒い背中の群れが神妙に頭を垂れている。中には、長袖のジャケットを着ている老人もいる。格子には硝子が嵌まっている様子なのでおそらく中はクーラーが効いているのだろう。昔は本堂にはエアコンは置かれず、日本式の風を通す設計の建物がうまく機能し、真夏でもそれなりに涼しかったと聞いたことがある。だが最近は、檀家の要望を受けて業務用のエアコンを設置する近代的なお寺も増えてきているという。私は、ハンカチで汗を拭った。
 このまま、熱中症にでもなれば、彼らへの嫌がらせになるだろうか、と想像する。倒れるならばこの賽銭箱の前ではなく、階段を降りたところにしなければならない。そうすれば、先ほど彼らが入っていった祈祷者用の出入り口から出てきた者に発見されるだろう。

 彼らが「見えないまま」にしておきたかった女を目の前に出現させてやるのだ。

 きっとあの黒い背中の誰かが私に気づいて声をかけるだろう。「大丈夫ですか」と。もしかすると「誰か一緒にいらした方はいますか。ご家族の連絡先は」という話になるかもしれない。そうしたらできる限り悲しそうに首を横にふってやるのだ。
「家族は亡くなりました。……一周忌を迎えられた、あやなさんです。私はあやなさんの『妻』でした。ご両親には認められていませんでしたが、せめて外からでも一周忌に参加したくて……」と。
 お堂の中では焼香が始まっている。一人ずつ席を立って、読経が続く中、あやなの写真の前で手を合わせてゆく。
 不意に、小さな影が横切った。幼い足跡をさせて、母親らしき女性の隣にくっつく。女性は子供の体に手を回し抱き寄せる。視界の端でもうひとつの大きな影がうずくまった。父親が、子供をトイレにでも連れて行って、戻ってきたのだろう、と推測する。
 しばらくすると、子供と連れ立って女性がお焼香に立った。
 座っているときはわからなかったが、おそらくあやなの姉だろう、と思った。うつむいて子供に気を配る、細い首筋がよく似ている。一周忌の法要が、今日この日に行われることをこっそりLINEで教えてくれた、お人好しのあやなの姉。あやなとは正反対の性格の……。
 子供を抱き上げてお焼香をさせたあと、教えながらふたりで手を合わせる。その背中を見つめながら、ふとばからしくなって私は笑った。そしてお堂に背を向け、炎天下の中へと歩き出した。

***

 タクシーにでも行き遭えればと思って歩き始めたのに、横を通り過ぎるのはトラックと自家用車ばかりだった。バス停にはバスはおらず、しかも次にやってくるのは三時間後だった。だから歩き出したのに、これでは駅まで歩くことになるかもしれない。車だって、十五分はかかる道のりなのに。それでも車が通るたびに起こる風で少し涼しくなるので、気分は悪くなかった。
 坂を下り、しばらくすると視界が開けた。
 小規模な盆地とでも言えばよいのか、左右を見ると、下ってきた坂と向こうに広がる丘陵の間に田んぼが遠くの方まで続いていた。
 私は立ち止まる。どこか覚えのある景色だった。多分、あやなの生家のある辺りだ、と思い出す。彼女の遺品の整理について相談するため、一度だけ訪問した。
 丘陵の縁をなぞるように少しずつ間隔をあけて農家と覚しき家が建ち並んでいる、おそらくその中の一つに彼女が高校まで住んでいた家がある。彼女の生家は祖父母の代まで農家だったそうで、目の前の通りをまたげばすぐに田んぼに至るような場所にあった。
 あやなとは大学で出会った。だから私は、彼女の中高時代を知らない。確か、制服はセーラー服だったと言っていた気がする。
 田んぼの間の用水路沿いを、長い黒髪のセーラー服の少女が歩いて行く様を想像する。土手は雑草に覆われ、そのうちの一部は丈が膝ほどにまで達している。それらを蹴散らしながら、想像の中の彼女はざくざくと前に進んでいく。
 あやなは無駄なことが嫌いな人だった。真夏の刺すような日の光も。私と暮らしている間、彼女は日傘を手放さなかった。だから彼女はきっと、舗装された田んぼの向こうの道を、自転車で通学しただろう。
 そう否定してみるが一度脳裏に描いた映像は頭から容易には離れない。私は幻影につられるようにいして、土手の道へと入っていった。

 草の匂いが、強く香る。
 私は喪服の上着を脱ぎ、黒のワンピース一枚になる。
 きっと、犬の散歩でもしたら喜ぶのだろう。犬の目線の高さより少し低いくらいにまで、雑草はもさもさと生い茂り、道の真ん中辺りだけが人が通ったのか倒れて少し通りやすくなっている。昔実家で飼っていた犬が、草むらを散歩させるとわざわざ草の中に鼻先を突っ込み、好奇心で瞳を光らせながら歩いていたことを思い出す。
 少し先に橋が見えている。来た方の道よりずっと交通量の少ない、おそらく車線もないだろう道が橋の上を通っているのが遠目にわかる。ひとまずあそこまで行ってみようと決める。
 ヒールの靴で歩くべき場所ではない。一歩ずつ歩くたびにヒールが土に柔らかく沈む。きっと家に帰る頃には靴は泥にまみれ、ワンピースには草の香りが染み付いてしまうだろう。

 ……それでもいい。どこか、自棄ばちな気持ちで思う。次にこの恰好をするのは、自分の実家の両親にでも不幸がなければ、きっと三回忌の時だろう。きっとその時には、もうここに来ない。もし来る気になったとしても、それが最後だ。

 彼女が死んだとき、法事について調べた。今まで両親に任せきりで、祖父母が亡くなったときも言われるがままに出席していたがためにあまり深く知らなかった。亡くなってすぐの通夜と葬儀。彼女が亡くなったのは夏だったから、初七日のあとすぐに新盆が来る。次いで四十九日、一周忌。そして翌年は三回忌。法要の数え方は独特で、亡くなって満二年で三回忌、なのだそうだ。そして三回忌には、魂が生まれ変わる準備を終え、現世を離れるという。
 別に信心深いほうではない。けれどこうして人が亡くなるとつい、自分も経験してきて、周りもそうしている風習通りに、という気持ちが湧いてくるのは意外だった。決して、調べたからといって彼女の配偶者として法要を執り行うような立場にはないというのに。
 大量の羽虫が塊になって、陽炎のように立ち上っている場所に差し掛かる。虫がいるのは当然のことだがここに至るまで意識することはなかった。自分の読みの甘さに舌打ちし、虫を避けて踏み固められた道の真ん中を外れ、田んぼ寄りの雑草の中を歩く。
 草が足に絡みつくので、一歩ずつ足を高く上げて歩かねばならない。まだ橋までの道のりは半分ほどで、引き返すにしても同じくらいの時間がかかる。半ば意地になって、私は前に進んでいった。
 左右に広がる田んぼには丈の高い青稲がずらりと整列している。まるで緑の絨毯だった。都会生まれ、都会育ちの私にとっては珍しい光景だ。
 たとえ自転車でさっと通り過ぎるだけだとしても、こんな光景を朝に夕に眺めながら十代の多感な時期を過ごすのは悪いことではないように思えた。
「辛気くさい田舎だけど、五六月くらいの水の入った田んぼだけは嫌いじゃなかったよ」
 あやなはそう言っていたような気がする。普段氷のように澄んで尖っている彼女の目の色が、その時だけ和らいだのをよく覚えている。水の入った田んぼが一面に広がる様を見てみたかった。彼女と一緒に。
 私は強く唇を引き結んだ。

 目指していた橋に、十五分ほどかけてようやくたどり着いた。
 橋の上には短いガードレールが立っている。用水路への落下防止だろうか。そこから川を見下ろせば、夏の渇水のためか水量はすくなく、所々水底の泥が堆積し小高くなった上に雑草が生え、島のようになったものが露出している。
 ぼんやりと覗いていると、水面に波紋が浮かんだ。
 目をこらす。アメンボだった。よく見れば流れの緩い島の辺りにいくつも浮かび、各々水面についた足先に四つの丸をつくっている。
 この辺りに比べれば都会だが、東京の中では「田舎のほう」とされる武蔵野で生まれ育った。あの辺りには大きな公園が多い。決まって噴水か、小さな川があって、そこには大抵アメンボがいて、気持ちよさそうに水面を渡っていた。実家で飼っていた柴犬のジョンは、私が大学を卒業してあやなと「ルームシェア」を始める頃には亡くなってしまったけれど、幼い頃は両親の車の後ろの席に一人と一匹で乗って、長じてからは自分の助手席に彼を乗せて、公園に出かけた。園内を散歩し、一緒に水の流れやアメンボを眺めたのを思い出す。

 水面を眺めていると、じりじりと短い髪の下の首筋が焼け付くのを感じた。溜息をつく。金に近い茶髪を左右に振り、じっとりと湿った地肌に風を送り込む。
 そして私は、バッグからスマホを取り出した。検索結果の一番上に出てきたタクシー会社に電話をかける。
「ハイハイッ、お電話ありがとうございますッ」
 年配の男性が電話に出た。
「配車、お願いできますか」
「はーいもちろんです。どちらですかぁ?」
「えーと……どこだろここ」
 道の名前を示す看板などは、当然ながら見当たらない。田んぼを越えた先で土手に平行して走るコンクリートの道沿いには、神社がある。しかしここからでは入り口の石塔に刻まれた名前も見えない。来た道順をなんとか思い返しながら、たどたどしく説明する。
 会話するうちに先ほど土手に入ってくる前にいた道が国道らしいとわかる。国道沿いで拾ってもらうことにして、電話を切る。
「さて……」
 スマホをバッグにしまう。土手の道を戻るか、それともコンクリートの道に出るか。
 考えていると、ふと、近くで水音がした。
 川の方に目を向ける。アメンボが作ったにしては大きな波紋が、拡散して消えようとしているところだった。こんな用水路にも、魚がいるのだろうか。
 じっと見ていると、また水音が鳴った。今度はその発生源を捕らえることに成功する。

 ──パシャパシャパシャ。

 数メートル先の左手、コンクリート岸の下辺りにある島から、右側の島へ、水しぶきが舞った。
 まるで、見えない子供が、水の浅くなった用水路の中に降りて走り回って遊んでいるかのように。
 次々と、水音と波紋が不規則に上がり続ける。
 魚では、あり得ない。浅い水面には魚影など一つも見えないし、魚は多分、流れを横に進むような真似はしない。
 気味が悪くなり、目を逸らす。
 すると、水音が止んだ。
 終わったのだろうか。
 思わずまた、川の中程に目を戻す。
 左岸に沿っていくつか見える泥と雑草でできた島の、一番手前のところで、水が澱んでいる。目をこらすと、そこで川の水が三手に割れて、またすぐに元の流れに戻っている。
 ──二本の足で、何かがそこに立っている。そうとしか思えない、不自然な流れ方だった。

 私は目線を川からなんとかして剥がすと、コンクリートの道の方に歩き始めた。そのまま土手の道を──、あの、何者かの横を、通る気にはならなかった。

    ***

 夢を、見るようになった。用水路の夢だ。
 あやなの故郷で、小さな橋の上から流れを見下ろしている。
 ただ、それだけの夢。
 何かが起こるわけでもない。夢と夢の間に一瞬差し挟まれるワンシーンであることもある。
 それでもいつも気づく。「あ、またあの夢だ」と。
 川は、夢を見るたびに増水していくようだった。
 はじめは、一周忌の日に見たままの、浅い川がちょろちょろと流れる川だった。
 それが数ヶ月後の夢では、泥と雑草でできた島は水面に隠れて見えなくなっている。夏の太陽に照らされて、少し勢いを増した流れが、きらきらと光っている。
 流れの様子は変わっているのに、不思議と周囲の田んぼは変わっていない。青々とした稲が、絨毯のように広がったままだ。
 実際の季節は冬になっているのに、私は夏の川の夢を見続けた。
 今や夢の中で水は用水路の両岸を固めるコンクリートの半ばくらいまでに上がってきている。数日前に台風でも来ていたかのように水はどす黒く濁り、流れも速い。

   ***

「もしかして、彼女に呼ばれているんでしょうか」
 私は、目の前に座る女性から目をそらし、自分の手元を見つめながら言った。口にした瞬間からどこか気恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
「どうしてそう思うんですか」
 弓削菜穂子はそう私に問いかけた。

 占い師。そんなものに自分が頼る日が来るとは思わなかった。
 よく見る川の夢は、どうしても一周忌の日のぞっとした感じを思い出させる。それを見た日は決まってよく眠れた気がせず、朝起きると体が異様に重かった。最初は気のせいだと思った。しかし数ヶ月も続くと、単に嫌な夢を見ているだけだと思えなくなってくる。しかし、一体どこに相談すればいいのか。カウンセラーは違う気がするし、霊能者に相談して壺でも売りつけられるのも嫌だ。そう思うと、一人で抱え込むしかなかった。
 そんなときに職場の同僚が辞めることになった。故郷の母親が、大腿骨を骨折したのだという。
 彼女はまだ四十代だったが遅くできた一人娘で、ほかに母親の面倒を見られる人はいなかった。とはいえ近所の親類を頼ってその場を乗り切ることもできないではない。介護休暇などを使って最初だけ整えてしまえば辞めなくてもなんとかなるのではないか。そう上司は説得したようだったが「良い機会だから」と彼女は首を横に振った。
 運が悪いとでも思えないような不幸が、彼女の周りで立て続けに起こっていた。昨年自分自身も子宮に腫瘍が見つかり手術をしたばかりだったし、手術後の療養期間中に彼女の住むマンションの隣の部屋から火が出た。揚げ物の油の不始末が原因だった。彼女の住む部屋にも少し被害が及び、まだ体力が戻りきらないうちに新しい部屋を探さなければならなくなった。すこし落ち着いたかと思ったらダメ押しの母の大怪我である。
 今の仕事も決して楽ではない。アパレルメーカーの商品開発の仕事は、彼女にとって天職のように端からは見えていたが、シーズンごとの新商品発表に向けたスケジュールと、目新しくかつ売れるものを作らなければならないプレッシャーに追われ続ける仕事である。花形部署でもあるが、そのきつさを理由に、三十代前半のうちに辞めていく者も少なくない。彼女は長く勤めたほうだった。
 弓削菜穂子のことは、彼女から聞いた。
 私が所属する広報部の仕事は、商品開発部とも密接に関わる仕事だ。彼女とも知らない仲ではない。
「あんまりにも不運が続くからさ、占いに行ったのよ」
 退職の報を聞いて、声をかけにいくとそう彼女は声をひそめて言った。私は少し驚いた。彼女は自分と同じで、占いとかそういったものに興味がありそうなタイプではなかったから。
「どうだったんですか」
「それがさ、行ってから知ったんだけど霊能者としても有名な人だったらしくて。今すぐ実家に帰ったほうがいいって言い出して。今起こっている不幸はすべて母が寂しさをこじらせて生き霊を飛ばしているんだとかって」
 そう言って彼女は苦笑した。
「思い当たることがないでもないのよ。……父と熟年離婚してさ、あの人。いるうちはぶつくさ言ってて、離婚してせいせいしたって言ってた割に、気が抜けちゃったのか、ここしばらくなんにもやる気がでないみたいだったから」
 信じたわけでもないけれど、独り身で気楽な身の上でもあり、ちょうど仕事でも行き詰まっていた。それでしばらく母と同居してやってもいいかという気になったのだという。
 彼女が行った占い師の名前を聞いておいて、あとで検索した。確かに占いと共に、心霊相談をしたという人の感想がネットのあちらこちらに散らばっていた。
 半信半疑ながら、占いという立て付けであれば、カウンセラーや霊能者よりも相談しやすい気がするという理由で予約をとったのだった。

「だって、その地域との繋がりなんて、彼女くらいしかないんです。彼女のことがなければ、行くはずもなかった場所です」
 私は俯いたまま答えた。
 彼女が自分を呼んでいるのではないか。
 そう考えるようになってからは、恐怖や疲労以外にも、奇妙に浮き立つような気持ちを感じるようになっていた。──その夢に、いつか彼女が出てくるのではないかと、そんなことを思ったりもした。弓削に会いに来たのは、それを確かめたいという欲求もあった。
「本当に親しかったのね。地元の友達でもないのに、わざわざ一周忌にまで行くなんて」
 言われてどきっとした。あやなのことは友人と説明していたが、本当の関係を見透かされたような気がした。
「その子はどうして……?」
「交通事故でした」
 弓削の言わんとしているところを察して答えると、
「その子じゃないと思うわ」
 と、彼女はやけにきっぱりと言った。
 顔を上げる。弓削はじっとこちらを見つめていた。彼女が自分を通り越して背後を見ているような気がして落ち着かない。よくイメージされる占い師のように水晶を覗き込むでもなく、机の端に重ね置かれたタロットを弄るわけでもない。けれど、彼女の言葉には底知れない自信が宿っているようだった。
「…………もしかして、『目が合った?』」
 弓削は私に、そう聞く。
「誰とですか?」
 私は首を傾げる。
 弓削は少し黙って何か考えている様子だったが、
「確証はないんだけどね、……一番良いのは忘れること、気にしない事よ。多分あなたが忘れないようにその夢を見させてるんでしょうけど。忘れて、そこにもう二度といかなければそれで解決するはず」
 と言った。煙に巻かれたような気がして、質問を重ねたが、弓削はその話題にそれ以上触れようとせず、タロットを無造作に取り出して仕事運について占い始めた。

 彼女にお土産だといって渡された月の形のチャームを、一応鞄に潜ませて生活をしていたが、変わらず夢の中で川は増水し続けた。

 ***

 そして、また数ヶ月が過ぎた。私は結局、その場所に舞い戻ってきてしまっていた。
 彼女の三回忌を少し過ぎた、迎え盆の日だった。
 一周忌の日と違い、私はジーンズにTシャツの軽装をしている。
 もはや、彼女のいない寺やお墓には興味がない。ただ同性だからというだけの理由で私を無視し続けた、彼女の実家の家族が行う行事なんかにも。それよりも、彼女に会えるかもしれないということのほうが、よほど重要だった。
 用水路には泥の色をした水が満ちあふれている。夢で見た光景と同じだった。私は、橋の上からそれを見下ろしている。
 昨日までの記録的な雷雨で増水した川は、関東地方の各地で氾濫を起こし、床上浸水をした家も決して少なくない。この辺りは小さな盆地のような作りで、家がある場所は少し高くなった場所にある。だから家々への浸水被害はないようだった。
 代わりに、青々とした稲の一部は無残にも泥にまみれている。土手を越えて、水が田んぼに浸入したのだろう。水門を開けきっても追いつかないほどに。残った田んぼの中ほどの稲も、風で倒されていた。
 今年は、米が不作になってしまうのだろうか。ぼんやりと考える。農家の経験はないのでよくわからない。
 台風の翌日は綺麗に晴れ渡り、しかし夕方になると不穏な風が出てきた。あの日とは違って、真っ昼間ではない。だから、それほど汗をかかずに外にいることができる。この台風をなんとか生き延びた、蛙の声がする。

 ──もうすぐ、夜が来るのだ。

 弓削に相談に行ってからしばらくして、夢にあやなが出てくるようになった。否、正確に言うと姿は見ていない。けれど感じるようになった。

 いつもの、川の夢だった。
 川は、夢を見るたび増水し続ける。
 こんなに綺麗に晴れているのに、と不思議に思いながら、私は流れを眺めている。
 流れはごおごおと音を立て、ついには土手の上から三十センチほどのところにまで水が流れるようになった。ほんの少し、足を滑らせたら水に落ちる。そんな気がするほどにまで。
 川を眺める私の横に、いつの間にか誰かがいるように感じるようになった。
 私の視界は固定され、横を向くことができない。
 けれど確かに、誰かがいる気配がする。
 横を向きたいのに向けない。
 そんな日が続いた。
 季節はいつの間にか冬を過ぎ、春になっていた。
 それでも夢の中の季節は変わらない。
 私自身も変わらない。──変わることができない。
 それはそうだ。あやなの故郷の風景を、こんな風に週に一度は見せつけられて。彼女の存在を忘れることなどできるわけはない。
 弓削はあやなの存在を否定する一方で「あなたが忘れないようにその夢を見せてるんでしょうけど」と言った。それはあやなが、そうしているんじゃないのか。私に対して、「忘れないで欲しい」と言っているのではないか。
 その考えが頭から離れなくなり、あの夢に出会うのを待ち望むようになった。
 次第に食が細くなった。よく眠っているはずなのに、不眠のような症状を呈するようになった。どれだけ寝ても眠い。日の高いうちから、眠気が取れない。仕事のない日、私はこんこんと眠り続けた。次第に平日も、どうしても起きられず遅刻する日が増えた。会社にメンタル不調を疑われながらも、私は必死で誤魔化しながら仕事をした。
 そうしているうちについに七月になった。
 夢の中で、相変わらず私は流れを見下ろしている。川の水は、溢れんばかりに増水している。
 ある日のことだった。

 女の手が、見えた。

 ガードレールの上、私は流れをぼんやりと眺めている。ふと、気配を感じて視線をずらすと、ガードレールを掴んでいる私の手の横に、もう一つ白い手があることに気づく。
 ほっそりとした長い指が、白いガードレールを掴んでいる。
 横を向くことができないのに、さらさらと長い髪が風に流されて鳴っているような気配を感じる。
 それは、慣れ親しんだあやなの手に見えた。十年も一緒に暮らして、一緒に料理を作り、私に愛おしげに触れた、あの手に。
 あの一周忌の日に感じた、ぞっとするような恐怖は、どこかに吹き飛んでしまった。
 見えない子供の足と思ったものは、じつはあやなのほっそりした足だったのではないか。彼女が川の中に立って、私のことをじっと見上げていたのではないか。
 そう思えば思うほど、いてもたってもいられなくなった。
 私はじりじりしながら「この日」を待った。何故か、「この日でないといけないのだ」という奇妙な確信があった。三回忌を終えた後の、お盆の時期。きっとあやなは「帰って」きている。三回忌の日でもよいのかもしれないが、もっと確実性を上げたかった。お盆の日はあらゆる亡くなった人が現世に戻ってくるという。きっとその中に、あやなもいる。ちょうどその頃に、夢の中の川の水も、溢れんばかりにいっぱいになるに違いない。

 田んぼの向こうの道を、一台の乗用車がぶうんと音をたてながら通り過ぎていった。一時間ほど前にここにたどり着いてから、しばらくの間は田んぼに溢れた水をポンプで吐き出す作業をしている人の姿があったり、乗用車が何台か行き来していたが、それもいつのまにか見えなくなった。車のエンジン音が遠ざかり、聞こえなくなる。私はまた、川面に目を戻す。
 あの日いたアメンボは、どこに行ってしまったのだろうか。台風による増水で流されてしまったのか。
 そんなことを考えていると、不意に、川の水が強く香った。水は常に流れているはずなのに、澱んで腐ったような匂いがする。

 ──どん、と、背中を押された。

 前のめりに倒れ込む。川が眼前に迫り、水の匂いが一層強くなる。
 辛うじてガードレールを掴んでいる手で、体を支えていたが、これがなければ落ちていたかもしれない。不意打ちに高鳴った心音を、服の上から押さえながら私は体を離そうとする。
 背後にちらりと視線をやる。

 ──誰もいない。

 私は、息を飲んだ。
 白いものが視界の端に横切って、私はまた川面に視線を戻す。
 水面から、すう、と手が出てきた。
 女の、白い手。
 人間にはあり得ない長さで手だけが伸び、私の首に絡みつこうとする。

 ああ。
 あやななのか。
 一人で逝くのが寂しくて、私に共に来てほしいと言っているのか。

 ガードレールを掴む手から力が抜けようとする。
 ここで、身を投げれば。あやなと一緒になれるのだろうか。
 私はそのまま、濁流に呑み込まれようとして、そこにいくつもの手を見る。
 女の手だけではない。子供の小さい手、老人のような手、男性の手。
 いくつもの手が出現し、私を濁流の中に抱き留めようとしていた。

 不意に、ふくらはぎに痛みが走った。
 私は驚いて、後ろにのめる。
 なにか、獣に噛まれたような感触があった。痛みを感じた箇所が熱い。
 そのまま橋の上に尻餅をつく。ううう、と犬の唸るような声がした。
 温かくてやわらかいものが、私の二の腕に触れる。
「……ジョン?」
 腕を上げて感触を確かめる。それはたしかに、亡くなったジョンの少し固い毛と同じ感触だった。
 我にかえり、次いで恐怖がやってくる。
 あやなは。私の恋人は。
 こんな風に私を殺そうとしたりはしない。
 だってあの、気高くて傲慢で、でもやさしいあの人は。交通事故に遭って苦しい息の下で、私にメッセージを送ろうとしていた。「大好き。私の分も」と。同性のパートナーである私のところには彼女からの連絡はすぐには届かず、実家の家族に連絡が行き、私は彼女の死に目に会えなかった。けれど、お人好しの彼女の姉が教えてくれた。彼女がそのとき手にしていたスマホに、送信しかけて遅れなかったメッセージがあったのだと。
『私の分も生きてって、言いたかったんだと思います』
 彼女の姉は、そう言って葬儀の前に泣き崩れた。その画面を、私に見せながら。

 ──ちらりと。ガードレールの隙間から、白い手が橋にかかり、こちらに向かってこようとしているのが見えた。

 私は弾かれたように立ち上がる。そして、全速力でその場から逃げた。コンクリートの道に出て、神社の前を通り過ぎ、国道に出る。息が切れ、走るのをやめて歩き始める。国道は車やトラックがビュンビュンと通り過ぎている。駅までは歩いて一時間以上あったが、様々な考えが浮かんでは消え、決して苦にはならなかった。既に夜が訪れた田舎の国道沿いを、私は黙々と歩いた。

   ***

 足の傷が治った頃に、弓削のところに行った。
 あの日、駅について一息つき、ジーンズを捲ってみたら、本当に犬にでも噛まれたようにふくらはぎからは血が出ていた。翌日病院に行ったが、ずきずきした痛みが消えるまでにはしばらく時間がかかった。
「だから忘れろって言ったのに」
 弓削は呆れたように嘆息した。
「そしたらもう必要ないでしょ。あれ、返して」
 言われるまで、彼女にもらったチャームの存在を忘れていた。鞄の底に眠っていたそれを取り出すと、三日月の上辺が少し欠けていた。
「どういう意味のあるものだったんですか、それ」
 私が問うと彼女は気まずそうに少し視線を外した。
「一時的に霊感を高める効果があるの。私の分身みたいなものだから。……だってしょうがないじゃない。あなたについてるワンコがあなたのことあんまり心配そうにしてるもんだからつい。ちょっとでもコミュニケーションできたらいいと思って」
 叱られた子供のように言う彼女を見ながらようやく合点がいった。霊感を高めた結果、ジョンばかりでなく、私を取り込みたがっていた『あれ』の受信感度まで良くしてしまったのだろう。

 それからあやなの故郷には行っていない。
 用水路というのは農業のために人が創り出したものだというけれど、うっかり転落したついでに意識を失い、浅い水しか流れていなくても溺れて亡くなる人も少なくないという。そういう人、だったのかもしれない。あの白い手は。
 それに、あの地域には古くから古墳などが点在する。用水路近くにあった神社も、どうやらそれを祀るものらしい。あの用水路はため池に溜まった雨水やわき水を利用しているらしいが、いったいどこを通ってきた水なのか、何が混じっているのか、わかったものではない。
 おそらく私は一生を都会で過ごすだろう。ああいう土地は、たまに行くからいいのであって、私のような人間にはきっと合わないに違いない。あやなが、きっとそうであったように。

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