彼の欠乏と幸福

彼は喉が渇いているとき、水を欲している。

彼は寂しさを感じるとき、恋人や友人に会いたがる。

それは彼にとって自然なことなのだ。
人はひとりでは生きては行けない。

彼は自分の仕事から得られる収入に、物足りなさを感じる。

それこそ、今の彼自身をもっと働かせる力ではないだろうか。
手に入れたいものが沢山ある。
物質的なものだけではなく、地位的なこと、他人に見られるときの、立場というものがある。

彼のいう欲望は、世間的に前向きなものだ。
生きて行くために。新たな恋人や友人を獲得するために。彼をもっと、魅力的な立場に置くために。
そうするのが、あたりまえではないか。
(そうしてはいけない理由もない。)

彼は時々こういう話を聞く。
すべてを手に入れたはずの億万長者は、彼に近づいてくるものすべてが疑わしく思えて、孤独なのだと。

あるインドの少女は、やっとの思いで手に入れたパンを隣人に分け与えたそうだ。

自分が苦労して手にいれた地位についたとき、思う。金銭的には前よりずっと恵まれている。美しい妻もいる。かわいらしい子供たちも。周囲からの羨望の眼差し。

けれどもここには新たな問題があるようだ。片付けたと思ったらまた次の問題がやって来て、それらがずっと続いていく。運よく平穏だと感じる状況が続くかもしれない。けれども、そういうときも退屈かもしれない。
妻だけでは物足りない。成長した子供たちも味気ない。若いくせに、あいつは最近急激に業績を伸ばしている。

欠乏のあるところに、豊かさが生まれる。
欠乏の欲する先に、‘豊かさ’はある。
欠乏から、真の豊かさは発生するのだろうか。
(本当にそうだろうか。)
真の豊かさとは何だろう。
‘真の豊かさ’を感じるのは、一体何だろう。

これは極めて現実的な問いじゃないだろうか、と
彼は思う。
‘豊かさを感じるのは、一体何なのか。’

あのインドの少女はきっと、間違っていないとふと思う。


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