インド瞑想旅が私を変えた 8|1万人で瞑想する日々
過酷な環境の中、体調を崩しながらも、心と身体が思いがけない方向に変わっていった私(第7話)
相手の悪い面よりは良い面が目に飛び込んでくる。一見失礼なことをされても、愛おしくなる。
マイナスな状況が、むしろ私の中にあるプラスの心を引き出したかのようだった。
さらには、髪も肌も驚くほどツヤツヤになった。身体はこの状況を喜んでいるのかと思うほどだ。
同時に、私は瞑想でも新たな境地を得ることになる。だが、ここでも光と闇が交差していた。
1万人で瞑想する日々
今回参加したグループ瞑想会は、混沌とする情勢を受けて、世界平和を目的にインドで開催された。
参加者は1万人以上。139カ国から集まったという。突然思い立って来たが、よく考えるとかなり大規模な瞑想会である。
私が続けている瞑想では、多くの人が同じ場所に集まって瞑想することで、大きな調和の波が起こり、世界に肯定的な影響を与えると言われている。
その結果、紛争や暴力など否定的な出来事が減っていくというのだ(科学的な調査結果もある)。
一方で、私は、世界平和のためという気持ちがそれほど強くなかった。
日常から離れて瞑想三昧の生活を送り、人生を見つめ直したい。正直なところ、そういう気持ちの方が強かったのである。
瞑想は、1人よりもグループで行った方がはるかに気持ちが良い。「1万人も集まったら一体どうなるんだろう」という期待もあった。
だが、初めのうちは、快適な瞑想ができたとは言えなかった。ある問題があったからである。
流浪の瞑想者
この会場に着いて数日後。私とNさんは、瞑想会場で座椅子と場所の争奪戦に敗北した。
海外の瞑想者たちは、座椅子をいち早く手に入れると、すぐにマジックで名前を書き、周りに自分の物を置いて、瞑想する場所を確保していた。
一方、私たちには、その発想が全くなかった。瞑想が終わったら、座椅子を元に戻し、荷物は持ち帰っていたのだ。
所有の文化と共有の文化の違いだとは思う。だが、結果として、私たちはいつも、座椅子と場所を求めて、複数ある会場を流浪する羽目に陥った。
ここに集まった人たちは、上級の瞑想の実践者だ(シディプログラムという)。
この瞑想ではフライングをする。座って瞑想するだけでなく、最終的には飛ぶのである。
そのときに至福を体験する。本来なら、広々とした場所で、ゆったりと瞑想したいところだ。
ある日。私は何とか手に入れた座椅子に、思い切って名前を書いた。
折角インドにまで来たのに、肩身の狭い思いで毎日瞑想するのが、もう嫌になったのである。
敗北感のような、良心の呵責のような気持ちが複雑に入り混じるが、背に腹は変えられない。
名入りの座椅子の側にペットボトルとネックウォーマーを置いたまま、その日は宿に戻った。
だが、思いがけないことが起こるのである。
瞑想会場での闇の体験
翌朝。私は少し遅れて瞑想会場に向かった。
「あの場所は無事あるのだろうか」と、ドキドキしながら恐る恐る近づく。
ところが、私の座椅子も荷物も忽然と消えていた。
状況が飲み込めないまま、辺りを見回す。すると、マットの隙間の床に、他の座椅子とともに雑然と積み重ねられているのを見つけた。
どうやら、私が遅れたので、片付けられてしまったようだ。
幸い元の場所に人はいない。釈然としないまま、座椅子と荷物を引っ張り出し、再び場を整えた。これでようやく瞑想を始められる。
すると、近くにいた西洋系の外国人の方が、険しい顔で何やら私にジェスチャーをしている。
「そこをどきなさい」と言っているようだ。
彼女との間には、広くはないが、フライングができるスペースはある。周りはすでに埋まっていて、瞑想できる場所は、もう他には見当たらない。
「これから私は瞑想したいのだけど、じゃあどうしたら良いの?」
困ってそう言うと、彼女は不満そうな顔で首を横に振ったが、ほどなく瞑想に戻った。私はこの場所で瞑想する権利を何とか得られたようである。
だが、その冷たい態度や競い合わなければならない状況に、私の気持ちは暗くなった。
「これが本当に世界平和のために集まった人たちなんだろうか」
自分も世界平和が一番の目的ではなかったはずなのに、ついそう思ってしまう。
だが、大部屋の二段ベッドで体験したのと同じように、ここでも私は闇から光に転じる体験をする。
さらに、瞑想でも新たな境地を得ることになるのである。
つづく
★次の話はこちら
★第1話はこちら
★「新しい自分になりたい」と追い詰められた42歳の私が、瞑想やアーユルヴェーダなど、心と身体と魂の浄化に励んだら、人生が変わっていった話
フォロワーの皆さまとのお茶代にいたします。ぜひお話ししましょう!