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写真と私の存在証明。

見たい過去写真を探していて、スマホのカメラロールをスクロールしていると殆どが子どもたちの写真だらけで。たまに私の寝てる姿を子どもが撮った写真が出てくる。いつも私の周りには子どもたちが纏わりついていて、私は一人でいることなんてなかった。写真をやりに暗室行ってるときくらいだったかな。もう一人にして、と叫びたくなるくらい寝ても覚めても子どもたちがいた。

今は私が仕事から帰ってきても、子どもたちはすぐ寝る時間になってしまう。今日は長男が「寝るときママいるからギューしてもらえる」と髪を乾かしている私に近づいてきた。続けて三男もハグしに来る。幸せそうだ。
「昨夜もいたじゃない」「昨日はお風呂にいたからギューできなかった」
たしかにママは長湯になって仕事から帰ってきたらお風呂にふやけるまで入るようになった。
最近は、ママの不在に慣れた子どもたちより、母のほうがたぶん寂しさを感じている。身の回りにだれもいない感覚が気持ち悪い。カメラロールにも、なんでもないスクリーンショットが並ぶ。撮る写真も誰もいない風景写真。


4月。
悩む時間が嫌で勉強の予定を入れすぎたツケが回ってきている。仕事が休みの日も学校だの何だのやる気がないのに予定がびっしりと詰まっている。先週は過労気味で吐きそうだった。段違いに忙しくなったのに眠れない。
楽しみだったウォーキングやピラティスの時間が削られている。学校で同じ班になった女性は、朝3時半に毎朝起きて筋トレをして、そのあとジムに行って朝帰ってくると話していた。
好きなことの優先順位のつけ方、時間の使い方を考えるが余裕がない。
「新入学のお祝い品を配るのでいつがご都合よろしいですか?至急お返事ください。」
仕事前の空き時間にまたひとつ予定が入ってくる。

4月、
新しいことがたくさん舞い込んできた。
人が何かをするには、それだけ強い意志が必要だと思い知らされる。やりたいことをするには、苦手なことも付いてまわるし、後回しにするあんばいも図らなきゃいけない。
下手くそだなぁ。
「写真家を名乗るなら死んでも自分の作品を貶してはいけない」
以前、人に言われたことがある。
写真ではないけど、自分に思うよ。
生き方も下手くそだし、やってることも情けないと思うことが多いよ。
人に上手く優しくできてない気がするし、あれがダメだこれがダメだ指摘されるよ。それでも写真を撮るなら、その一瞬、世界にはダメなものなどひとつもなくて、シャッターに捉えられた四角い枠の中には完成された空間が存在している。だから写真を撮ろう。下手くそだろうがそこには不確かなものはない。名前が付いてようが付いてなかろうがそれは成立している。
写っているものの存在証明であると同時に、撮り手側の存在証明でもある。面白くなかろうが面白かろうが、生きることを続ける。今の自分を撮る。さて、明日もがんばるか。



Rolleiflex 3.5F Xenotarフィルム・印画紙/ARISTA



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