見出し画像

4月13日は「水産デー」

それはどうしようもなくマグロで、誰かにあの魚はなんですか? と聞く必要性は0%だ。銀色に光る、まるまると太ったマグロに対して今まで生きてきた中ではじめて、まるまると太ったなんて言葉を使った。その点だけをとっても大したもんだよマグロ。

数秒に数回、尾びれ? 背びれ? 等の部分が昔の壊れたガラケーのように細かく振動してはやめ、振動してはやめを繰り返しての必要以上の自分生きてますアピールに、いや知ってますよと日本語で伝えたが、マグロは日本語が通じないらしく、彼なりのマナーモードを解除しない。

生臭くなる一方の部屋の中でわたしは窓を開けた。お隣さんも窓を開けていたらもうおしまいだ。306号の人は生臭いというレッテルを張られてしまう。毎朝早朝に起床して、軽い運動をして、スムージーを飲んで、瞑想して、くどくないお化粧をして、動きやすい服装に着替えて、観葉植物に水やりして、豆からひいたコーヒーを一杯飲んで出勤するYouTubeに上がっているモーニングルーティンみたいな生活をしていてもマグロの匂いには勝てないよね。生命の匂いだもん、血の匂いだもん。当たり前だ。こんにちは、306号の生臭い女です。

マグロの頭の方向は北枕かしらと死ぬほどどうでもいいことを、死にそうなマグロを前に思った。このままマグロは死んで、漬けマグロや鉄火巻になるのか。何人前だろうと不謹慎なことを想像する。不謹慎? そう思う自分が不謹慎か? 大分元気がなくなってきたマグロに対して、わたしの答えは一つだ。

急いでお風呂場に向かい湯舟に水を入れた。今日は一段と冷える……お湯か? と一瞬迷ったが相手はマグロだ。湯舟にはびっくりするほど全然水がたまらなかったので、3センチくらいたまったらもう我慢できなくなってマグロの部屋に向かう。横たわるマグロをどのようにしてお風呂場まで運ぼうか考え、一瞬嫌なことを考えて、自分で自分が嫌になった。その日はお気に入りの白いワンピースを着ていた。このワンピースにマグロの匂いが付いたら、もう着られなくなる。そういうことを考える事に本当にうんざりしていたわたしは、すしざんまいの社長がそうするかは知らないが、思いっきり両腕でマグロを抱えた。マグロは想像とだいたい同じ重さで重かった。ぐっと体に密着させてマグロと一体化を図り、重心を重ねる。ゆっくりとカニ歩きでお風呂場へ。マグロなのに。

5センチメートルに増えた水量は心もとなかったけど、湯舟にマグロを入れる。というより重すぎて放り投げる。ぎゅりゅんとマグロの体面と湯舟の表面が初対面の挨拶のように奇妙な音を出す。
マグロは湯舟に収まった。いや尾っぽのほうが少し曲がって、シェアハウスに泊まり、はじめて日本の狭いお風呂に入り、足が完全に伸ばせず体育座りを異国でするイギリス人のバックパッカーのようだった。しかしイギリス人バックパッカーとマグロの最大の違いは、日本をある程度満喫したイギリス人バックパッカーは、大好き日本というTシャツを着て、頭にちょんまげのかつらをかぶって母国に帰る。その後結婚して、素敵な家庭を持つ。一男一女に犬2匹。一方マグロはわたしの家の狭い湯舟で決してくつろいでいるとは言えない状態で勢いよく出る水に頭部が濡れ、渋い銀色。真剣に命を取られるんですと覚悟を決める侍のそれのような緊張感で、同じ狭い湯舟でも悩む体育座りとは違い覚悟の正座のようだった。

その日、わたしは疲れていたけど仕方なく湯舟をマグロに譲り、シャワーで済ませた。とりあえず色々なことを考えすぎたので、マグロのことは明日考えることにする。

4月13日は「水産デー」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?