だから私は私を褒めてあげることにした



たまに人に聞くことがあります。
「大人になったなあと思った瞬間ってある?」

ほとんどの人は、珈琲がブラックで飲めるようになったとか、お酒が美味しく飲めるようになったとか、何時に何を食べても怒られないとか。

確かに、子どもの頃は苦いものより甘いものが好きだったし、もちろんお酒は飲めないし、飲んだとしてもきっと不味い。それに、おやつの時間も決まっていました。

子どもと呼ばれるには大人で、でも大人になりきれていない23歳の私が、子どもと大人の違いを考えるなんて身の程知らずかも知れないけれど、よく、“大人になるってこういうことなのかなあ” なんて考えたりします。

そもそも、小学生の頃に思い描いていた中学生ではなかったし、中学生の時に思い描いていた高校生ではなかったし、大学生の私も、想像より遙かに世間知らずでした。

そして未だに、思い描いていた23歳など程遠い私。
それでも、両親にお金を払ってもらい学習する立場を卒業し、社会に出て、お金をもらうために働きに行っています。

働くのが好きな人もいれば、そうでない人もいる。私は、今の職場には恵まれており、大好きだけれど、ばりばり働きたいか、と言われたら、そうではないです。

だけれども、生きていくためには、何も買わなかったとしても、欲しいものを我慢したとしても、多くのお金がかかるので、働かなければいけません。

そんな気持ちで“働く”を選択している私でも、現在の職場は、環境にも上司にも恵まれていて、大変働きやすく、少しでも力になりたい!と事務の勉強をするほどに楽しく働かせていただいています。


皆さんが働きやすい環境を作るのは事務の私。出勤したらお掃除。備品でも小さなものでもなくては困るものがなくなる前に発注し、お給料に間違いがないかの確認、誰よりも元気な挨拶!

“生きていくため”に働いている私でも、今は楽しくやり甲斐を持ち、誇りを持ち働いています。

でも、気づいてしまったのでした。私は、(もちろん大好きな職場の方の為でもあるけれど)、“怒られないため”にせっせと仕事をしていることに。もし受付が汚かったら怒られてしまう。必要なものがなくなっていたら怒られてしまう。挨拶を忘れたら怒られてしまう。だから、誰よりも笑顔で!と意気込み働いていることに。

私は、大人になった瞬間は、“褒められるためにしていること”が、“怒られないためにしていること”に変わった瞬間だと思いました。

思い返せば、小さい頃は怒られることよりも、「見て見て!木描いた!」「見て見て!お片付けできた!」。そう言えば、私の優しい母は、「すごいねぇ、よくできたねぇ」と褒めてくれていました。そして、もっともっと褒めてもらいたくて、いい子でいました。

小学校でも褒められたくていちばん張り切って(先生の目の前で)お掃除したり、だいっきらいだったお野菜だって給食で食べました。中学生の頃は、母に褒められたくて、「学校の小テスト満点だったよ!」と嘘をつくこともありました(おいおい)。高校生の頃は、アルバイト先のお蕎麦屋さんで、常連のおばあちゃんやおじいちゃんに「若いのにしっかりしてるねぇ」と言われたくて、ハキハキと仕事をしていました。

私は自他共に認める “褒められて伸びるタイプ” なので、いつだって褒められたくて頑張っていました。

でも、大人になるということは、褒められる➡怒られない 行動を意識すること。同じ質問を誰かにされたら、私は「珈琲が飲めるようになった時かな」ではなく、「怒られないように行動するようになったことかなあ」と答えるでしょう。

では、大人になっていく私たちは、そしてもう大人になった人たちは、誰が褒めてくれるの?仕事に行くのは “当たり前”のことらしく、褒めてもらえない。家事をするのも、自分が住みにくくなるだけだからやる。愛想だって大人として振りまくのが “当たり前”。

もう全部全部 “当たり前” なんです。私たちが生きるために頑張っていることって、世の中から見たら当たり前のことなんです。そんなの、辛いじゃないか。酷いじゃないか。生まれてきて、育ててもらって、成長をして、そしたら、息苦しくても頑張る日が訪れる。時に涙が勝手に出てきてしまう日があるのに。理不尽なことだっていーっぱいある!

それを全部、“大人だから” “当たり前” だなんて言われたら、みんなみんなやる気なくなっちゃいますよ。逆に怒っちゃいますよ!

そんな生きづらい世の中で、心身共に疲弊してしまったこの1年。誰にも見られない1年。だから私は、私を認めてあげることにしました。褒めてあげることにしました。小さなことでも、本当に、ほんの小さなことでも、褒めてあげるんです。

今日も朝起きて、ベランダの扉を開けて風を浴びた。お白湯を飲んで、一息ついた。お腹が空いていたら朝食を用意して、美味しくゆっくりいただいた。そしてお仕事に行った。お仕事をした。帰宅して、一緒に暮らす猫ちゃんのご飯を作った。自分のお夕飯を作った。お風呂掃除をして湯船で身体を温めてあげた。お風呂を上がって、頑張ってくれた手と足をマッサージしてあげた。猫ちゃんに遊んでもらった。お布団を整えて、お白湯を飲んで、明日の仕事の準備をした。

どれもこれも、誰からも見られていません。私がやりたくてやること。寝ちゃってもよかったのに、興味のあることを勉強したり、外食でもテイクアウトでもよかったのに自炊をしたり、私がたくさんの選択肢から選択してやったこと。それなら、私が私を褒めてあげよう。

1年前、とても辛いことがあった私は、本当に生きる希望をなくしました。お誕生日も、家族に祝わないでと頼みました。何が好きだったかも分からず、どう息をしたらいいのかもわからず、身体は不調ばかり。ただ毎日を生きているだけ。“死”を選ばなかっただけ。

そんな私だからこそ、生きていることだけで偉いんだと、毎日息をしているだけでほめてあげていいんだと思えます。そして、それはみんなそう。みんなみんな、偉いんです。そのままで偉いんです。本当に。

辛くても、苦しくても、惨めに思っても、職を失っても、失恋しても、いらっとしても、誰かに怒っても、怒られても、嫌われても、それでも自分を褒めてあげてください。

今日も頑張って動いてくれてありがとう。たくさん手も足も身体を支えてくれた。心臓が動いていたから息ができた。ありがとう。身体を温めてあげよう。それでいいんだと思います。

もちろん、後ろ向きになりできない日だってあります。褒めたくないような自分だっています。だけれども、一度深呼吸をして、自分を抱きしめてあげてください。偉いんです。頑張ったから、自分を嫌に思う日があるんです。

" だから私は私を褒めてあげることにした "

1年前の私がこれを読んだらびっくりすると思う!
頑張って乗り越えたんだね。今日はそう褒めてあげて、認めてあげて、身体を温めて眠ろうと思います。

今日も頑張ってくれてありがとう。

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