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時間切れ!倫理 136 幕末の思想

 1853年、ペリーがやってきます。幕府は鎖国政策をしていますが、江戸湾に侵入してきたペリーの艦隊を見ればとても勝てないことはすぐわかる。黒船から江戸の町に大砲を打ち込まれたら、江戸の町は火の海になって即降伏です。中国のアヘン戦争やインドの大反乱の結果を見ても、抵抗してもひどい目にあうことは目に見えているので、開国せざるを得ませんでした。
 幕府の方針は開国でしたが、開国するのか鎖国を続けるのかで日本国内が二つに割れます。開国方針に反対する人々は幕府を攻撃します。彼らは「攘夷だ、外国人を追い払え」と主張します。こちらが多数派ですね。しかもこの時期には、平田篤胤の復古神道が広がり始めています。復古神道は天皇を中心とする神道を唱えていました。幕府を批判する人たちは、天皇を中心として外国人を追い払おうと主張します。これが尊王攘夷です。
こういう情勢の中で日本の将来についてユニークな主張をしたのが、これから紹介する幕末の思想家たちです。

佐久間象山
 佐久間象山(1811生)は、はっきりと開国を主張します。これを主張するのは勇気がいります。多くの人は保守的に鎖国を守りたいと思っていましたから。
 彼の言葉です。「東洋道徳、西洋芸術」。東洋の道徳は素晴らしいけれども、ヨーロッパの芸術、つまり科学技術は東洋よりも優れているので、それを取り入れなければいけない。外国のものだからダメだというようなこだわりは捨てなければならない。日本は弱いから侵略されるかもしれない。強くならなければならない。強くなるためにはヨーロッパの科学技術を取り入れなければならない。取り入れるためには開国しなければならない。
 こういう論理で開国を主張します。「和魂洋才」も彼の言葉ですが、意味は同じことですね。
 まとめていえば、西欧科学技術による国防力増強を主張したということです。このようにはっきりと開国を主張すると、攘夷派によって命を狙われる時代でした。実際に佐久間象山は攘夷派により暗殺されたのでした。

吉田松陰
 吉田松陰(1830生)は、長州藩の武士。軍学者です。修行時代に佐久間象山と出会って大きな影響を受けました。
 松陰は開国か攘夷かといえば、どちらかといえば攘夷の人です。しかし他の人と違うのは、外国をやっつけようと思うのですが、敵を倒すにはまず敵を知らなければならないという考えたことです。(孫子の兵法「敵を知り、己を知 れば百戦危うからず」そのままです。)そこで、ペリーが2回目に日本にやって来た時に、漁船を盗んで沖合に停泊している黒船まで漕いでいき、黒船に乗り込んでアメリカに連れて行ってくれと頼みます。アメリカに行ってアメリカで勉強して、彼らの技術を身につけた上で攘夷を実行しようという発想です。ペリーとしては幕府と日米和親条約について繊細な交渉をしているところです。わけのわからない日本人を船に乗せて交渉が決裂しては困るので、追い払う。松陰は密航を企てた罪で萩に送還され、牢屋で他の囚人達に孟子の講義をしたことは以前にも話しましたね。
 その後、仮釈放のような形で自分の家に帰り、松下村塾という塾を開いて萩の若者たちに教えを説きました。彼の塾で学んだ若者たちの中に、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、井上馨らがいました。幕末や明治に活躍する人々です。
 彼は日本の進む方向として「一君万民論」を唱えました。一君というのは天皇ですね。天皇を中心として全ての人がまとまった国、事実上士農工商の身分制度を否定しているように思えます。現代風の言葉でいえば、国民国家の建設を主張したといってもいいでしょう。非常に面白い人だと思います。その後、井伊直弼が徳川幕府の大老になると、安政の大獄で密航を企てたという罪を再び問われて、最終的には死刑となりました。

横井小楠
 横井小楠(1809生)は熊本出身。開国論者として有名でした。先見の明のある理論家として福井藩主松平春嶽の政治顧問となりました。この人は幕末は無事でしたが、明治維新後になって、攘夷論者に暗殺されています。その開明性から、彼のことをキリスト教徒ではないかと疑っていた人もかなりいたといいます。
 横井小楠の文章をちょっと見ておきましょう。「堯舜孔子の道を明らかにし,西洋器械の術を尽く」すのは、富国強兵にとどまらず、「大義を四海に布かんのみ」。堯舜は中国古代の伝説の聖人です。聖人のやり方を素晴らしいものだとはっきりと確認した上で、ヨーロッパ人の科学技術を取り入れよう、と佐久間象山と同じことをいっています。
 ヨーロッパの科学技術を取り入れる目的は、富国強兵のためなのだけれども、それにとどまらず「大儀」つまり東洋の道徳を、世界中に広げるためである、といっています。ここがユニークなところですね。
 開国による変化を恐れたり、または、たかだか二百年足らずの伝統に固執して、鎖国だ、攘夷だと騒いでいる攘夷思想とはまったくちがう。彼らの一段も二段も上を行っていますね。こういう人が長生きをして、明治政府の中心で影響力をもちつづけたらどうなっていただろうと思います。

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