19℃-悩むこと、しゃべること、記録すること

何もなくてもこんなに悩んでいられるなんて、私の人生はどれだけロックなんだろうと思うことがある。

悩み続けることで自分の中の何かが改善することはそうそうないが、良くも悪くも自分の思考をより先鋭的にしたり、自分のメンタルの部分における深淵を覗いたりすることはできるようになってくる。それは自分自身を普段から分析できていることに他ならないから素敵なことである一方、一度その思考に陥るとトンネルを掘り進める方向にしか舵を切れなくなるという恐ろしさもある。

ところで、酒を飲むと記憶が飛ぶ人というのがいるだろう。無論、私も多少なりともそういうところがある。まあ自分は元来アルコールに弱く、飲む量も少ないからそんなにわかった気になってしゃべるなよという感じだが、ここ最近飲み会が頻発する中で自分の中で失われやすい記憶、失われにくい記憶というのがわかってきたので、どういうわけかここに報告する。
それは、話の前提が観測可能な事実に基づくか、私の思考上の事実(=悩み)に基づくか、という違いに依る。前者については事細かく、話の流れから細部の情報まで全て覚えている。一方で、後者は細部になればなるほどぼんやりしている。何を言って、何を言ってなかったかが怪しい。それは思考をしすぎた挙句、何をどこまで考えたのか、何をどこまで言ったのか、何をどこまで隠したのかなどの情報が、脳内でカオス的に散逸しているからだと思う。酒を飲んだらどうせあれこれしゃべりたくなって、しまいにはこうやってタンスから丁寧に折りたたんでしまったはずの悩みが散乱している状態になることはわかりきっているのだから、そろそろ私はしゃべることを控えるということを考えるべきだと思う。

こうやってnoteに残すというのは「観測可能な事実」であるので、これをやっているということはあったことを忘れられないことにしていること、すなわち備忘録に認めているということである。
今ザッとここに書いたように、すべての思考を毎秒記録できていたならいいのに。だって、脳内思考だけではいつか忘れてしまうから。メモの話の時にも書いたが、自分の中で思考と事実は同じくらいの重みとヴォリュームがある。だから、記録しづらい「思考」のほうをより大切に残すように動かないといけないとついつい思ってしまう。

おかげで、忘れたいことまで忘れられなくて、考えなくていいところまで考えていた記憶が残っていて、人生苦しんでるんじゃないかって?
ふふふ、ご名答。

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