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カネコアヤノ「タオルケットは穏やかな」を聴いて

カネコアヤノさんの音楽が好きです。
きっかけは覚えてないのだけれど、かれこれ2年くらい聴いてるのかしら、僕は好きになったアーティストを延々と聴いてしまう人間なので、本当に、ほとんど毎日聴いています。

1月中旬にワンマンライブに運良く行くことができ、何曲か新曲を聴いて、その新曲たちが収録された「タオルケットは穏やかな」というアルバムが1月下旬に発売されました。

発売日の夜、会社からの帰りながらspotifyで聴いて、いや〜やっぱり最高だなあと、ふんわりとした感想を抱いたのですが、先日高田馬場のdisk unionでレコード盤を(これも運良く)手に入れることができ、家で歌詞を見ながら、ゆっくりと時間をとって聴いたのです。

これがとてもいい。すごくいいのだ。
ここから、何がそんなにいいのかを話していくけれど、僕は音楽の専門家でもなければカネコアヤノフリークでもないので、お手柔らかに話を聴いていただければと思う。

まず、これまでのカネコアヤノの曲は生活や恋愛を歌ったものが多く、僕の体感では、カネコアヤノと何か外側のものの関係性を歌った曲が多かったように思われる。

今回のアルバムでは、打って変わって、と言うわけではないのだけれど、内省的な曲が多い。当然外側との関係から生み出される内省もあるのだけれど、〈私はこういう人間でした〉といった、過去完了的な気づきの曲が多いように思われる。

それが際立って感じられるのが、3曲目の「季節の果物」。
以下歌詞を抜粋したもの。

特に好きでもない人が夢に出てきた
愛犬と恋人を紹介された 冬
今にきづいたことじゃないけど ぼくは断るやりとり 苦手でした
君とは友達じゃない
優しくいたい 海にはなりたくない
全てへ捧ぐ愛はない
あなたと季節の果物を わけあう愛から

カネコアヤノ「季節の果物」

なんだか誰しも感じているけれど認めたくない部分、少し自分にもやっとしてしまう部分をこのような歌詞で昇華してしまう。
本当に全ての歌詞が、この言葉しかないといったように心地よく、またそれをまとった音楽も本当に美しいのです。
「海にはなりたくない」のように、なんだか釈然としない言葉選びや「季節の果物をわけあう愛から」のように、一方的な諦めではなくどこか希望が見える部分も心に刺さります。

同アルバム収録の「眠れない」や「気分」「もしも」なども聴いていて、これまで心で抱えていたわだかまりや、虚しさ、罪悪感なんかをすくってくれる部分があって、ぜひ聴いていただきたいです。

あとやはり、ライブに行って気づいたことが、カネコアヤノはミュージシャンというよりも詩人に近い存在であるということ。
音源とライブを聴き比べたときに、そのアーティストの真髄を知ることができると思っているのだけれど、カネコアヤノの曲はカネコアヤノが今、まさに今彼女の口から発せられた時に、最も意味をなすものだと思ったんです。
いや、どんなアーティストでもそれはそうやろと思うのかもしれませんが、なんと言うか、もはや成立しないという次元まできているのかも、とまで思わされました。

言葉がもつ意味の許容量を超えて、音楽が届くことの幸せを感じることができるのです。そして、届けることができるミュージシャンはそれほどいないのではないかとも思いました。
なんだか抽象的な話になってしまいましたね。

この記事を読んで、ぜひあなたに聴いて欲しいです。
僕は今日仕事をまたしても休んでしまいました、それはなんだか、気持ちが全く晴れず、このまま仕事に行っても泣いてしまうと思ったからいけませんでした。
昼過ぎまでリビングでぼーっとして、何もしない自分に罪悪感を覚えて、銀行に行くために外出しました。カネコアヤノを聴きながら。

ただ歩くだけの時間がこんなにも慰めになるとは思ってもいませんでした。別に自分を肯定してくれる音楽、というわけではないのです。ただ、僕がこの道を、銀行までの道を歩くことを促してくれました。
ただそれだけのことにすごく救われたんです。

聴いてみてください。
大袈裟な話をしているかもしれませんが、ふらっと、聴いてみてください。

おわり

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