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『父ちゃんの』

 冬、年末年始でもないのに久々に実家に帰ると雪が降らない。年末年始に帰れば、狙ったように雪が降るくせに。まあ、天気の機嫌なんて僕にとって問題ではない。

 問題なのは、つっかけが無いことだ。
 当然、つっかけというのは家付近での行動を円滑にするための簡易的な靴なので、この家に生活の主を置いていない僕のつっかけが玄関にあるわけがない。
 僕が見下ろす先にあるのは、運転に支障の無い機能性を持った僕のスニーカーが一足と、祖父母と父母の4人分のつっかけだけだ。

 まあ、食後の煙草をちょいと吸う間に、一時的に借りるくらい問題ないだろう。うちは僕以外の皆は遅飯だから。
──さて、どれを借りるべきか。冷えた玄関の床に耐えきれなくなる前に判断しよう。

 選択肢は4つ。
 祖母と母のつっかけは明らかに僕の足より小さいので、まず選択肢から排除だ。
 次に祖父のつっかけだが──扁平な足と老化で外旋してきた膝頭のせいで、つっかけの外側が変にひしゃげている。

 簡単な消去法だった。
 父のつっかけを借りればいい。
 息子が帰ってきたからといって、飲めない酒を小洒落た器に注いで悦に入っていた父は、先ほど睡魔に襲われていた。睡魔と格闘する父の動きは牛なみに遅い。
 ちなみに、父は寅年で、母がうし年だ。

 早速、父のつっかけに足を入れてみる。
 冬用なので中はモコモコしていて、数分くらいなら寒さから足を守ってくれそうな気がした。
 が、足を奥に差し込みながら、モコモコではなくゴワゴワだと訂正したくなった。長年履いてるわけではなかろうに、どうしてこうまで父の使うものはゴワゴワとした感触に変化するのか。
 まあ、いい。
 火を消すまでの数分だ。

 玄関先で煙草を吸いながら息を吐いていると、呼気が冷やされて白いのか、煙草の煙なのか、冬には見分けが付かない。
 これも、まあ、いい。
 見分けを付ける必要などないだろう。

 寒空の下、僕はじっとしていられず、冷える身体を紛らわすために、その場でふらふらと足踏みしてみた。父のつっかけを履いていることに違和感はない。
 子どもの頃、父のつっかけをフザケて履いて、カパカパと鳴らしていた頃の記憶を思い返してみる。小さな足には重く感じていた父のサンダルの記憶は確かに脳にはあるのだけれど、もう実際に体験することは無いのだな、と思った。

 雪の無い庭で、父のサンダルで、足をふみふみして、煙草を吸って。
 縮まっていく毛細血管で冷たくなった手では携帯を開く気にもなれず、僕はふわふわと浮かんでくる父のサンダルの記憶に揺れた。

 5分ほどして、煙草の火を揉み消すのと一緒に、揺れる記憶を脳から消した。

 寒さに肩を縮めながら玄関のドアを開けると、父がいた。
「サンダル。わしのじゃ、それ」
「んん」
「早く、脱いだ方がいい」
「んん」
「あのな、わしな、水虫──」
「ひぇっ?!」
 僕は声を上げながら、とっさにつっかけの中でつま先立ちした。いや、待て。これでは足先がつっかけにめり込むだけだ。
 いやいや、しかし、つっかけの中で重心を踵に預けるのは無理だ。玄関の上がりたてまでにはまだ距離があったが、今すぐに脱ぐしかない。

 目の前に、脱出先はある。
 僕は父のつっかけから足を抜いた勢いのまま、祖父のつっかけに飛び移った。幸い、祖父が雑につっかけを脱ぎ捨てていたため、祖父のつっかけの上にきれいに着地できた。
 祖父のつっかけの上でバランスを取る僕を見て、父が言う。
「それも、早く脱いだ方がいい」
「んん」
「じいちゃんも、水虫だ」
「ぬぇっ?!」
 僕はすばやく次のステップを蹴り、冷たい玄関の床に飛び乗った。

 その足で風呂に向かう。
 冷えきった足は熱いお湯に触れるとジンジンと痺れたが、湯船に浸かる頃には手の指先にも足の指先にも、なんの違和感も感じなくなった。
 風呂を出る頃には寒さなど忘れており、僕は煙草を掴んで、また玄関に向かった。


 素足でスニーカーは履きたくない。
 が、僕は迷わず足を降ろした。
 
 
 
 
 
 
(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。