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『手のひらの 唇の脇の 手の甲の』(1/11)

※この小説は、性的な表現を含みます。ご了承いただける方と、未成年の方以外はお進みください。


『手のひらの 唇の脇の 手の甲の』



「狭山さん、左手――見せて下さい」
「左手?」
 僕が結婚していないことはもっと早くに知っていただろうに、何を今さら聞くことがあるのだろうか。とはいえ、新入社員であるミコにとっては初めての出張だ。車内くらいは肩肘を張っていなくてもいいだろう。僕はハンドルから左手を離し、助手席のミコの側でひらひらと振る。
「ほら。左手だ」
「違いますよ。左手は合ってるんですけど、手のひらのことです」
「あ、こうか?」
 海沿いに一直線に続く高速道路を片手で運転し、僕は左手を返す。
「おー。やっぱり。狭山さんすごいですね」
「何が? ただの左手だろう?」
「いいえ、ただの左手じゃないんです。これ――」
「指をさされても分からない。運転中だ。それとも、前を見ずに手をじっくり見て確認すればいいのか?」
「あ! それはだめです。ここです、ここ」
 ミコが僕のてのひらに指先を押しつける。くすぐったいだけで、手のひらのどこを指しているのか分からない。
「ほくろです、ほくろ」
「ああ、確かに僕の左手のひらには、ほくろがある」
「すごいらしいですよ。手のひらのほくろって」
 何がすごいのかミコの語彙では補足されない。まあ、とにかくすごいらしいが、五歳年下のミコにとってのすごいは、僕にとっての意味不明だということだけは分かった。
「僕の手のひらのほくろがすごいなら、何かいいことがあるの?」
「んー。どうでしょう。詳しくは知らないですけど、とにかく、手のひらのほくろはすごいってことは知ってます」
 無意味な賞賛をしたかと思えば、次の瞬間には前を見据えてとぼける。計算高い女の子特有の興味の振り方が見てとれる。ミコは僕の発言に反応する度にふらふらと表情と視線を移動させた。それと一緒に、ふわふわと揺れるウェーブのかかったショートカットの毛先が、すっとブラウスの首元におさまる。

 ミコは高速道路を降りるまでの間に、占いや願掛けの類いの話を続けた。
「――それで、彼氏がね、蟹座なんですよ。私は牡羊座なんですけど――あれ、私の誕生日言ってましたっけ?」
「いや、しらないけど」
「あ、ごめんなさい。とにかく私は牡羊座なんです。それでね、蟹座と牡羊座っていうのは――あ、ちょっと待って下さい。狭山さんと彼女さんの誕生日は?」
「女はいない」
「<女>って、そういう言い方しますう?」
「じゃあ、女性でいいよ。交際している女性はいない」
「ふうん。それでね、なんの話でしたっけ?」
 それはこっちの台詞だと思ったが、ミコの話には終始まとまりがなかったので、わざわざ口に出す必要もなかった。話の内容はともかく、彼女がいる前提で質問をして、確認をとるあたりは手慣れている。
 まあ、長距離を運転する僕にとって、眠気覚ましになる程度にミコが饒舌で助かった。その程度の、二人だけの車内の空間を埋めるためだけの会話だった。
 唯一印象に残ったとすれば、手のひらのほくろのことだった。なぜかというと、僕が自分の手のひらのほくろについて昔から知っていたから、ただそれだけの事だろうと思う。


 高速道路を降りてすぐ、コンビニに入る。
 人を助手席に乗せていると、常に会話している状態になってしまう。これでは取引先に合う前から会話のスイッチが入りっぱなしになる。数分だけでいいので、言葉を聞かず、発さない時間を作る必要が僕にはあった。
「アポの時間まではまだ少し早い。コーヒーでも飲むか?」
「んー、めちゃくちゃ甘い奴なら欲しいです」
「好きにしたらいい。これで買って来たら良いよ。あと、お菓子も買いたければ買えばいい。ただし、食べるのは商談の後でな。僕は煙草を吸ってくるから、買ったら車に戻っておいて」
 紙幣とレンタカーのキーをミコに渡し、煙草と財布だけを手に灰皿まで歩く。長距離の運転の後でニコチンを摂取すると、頭がくるくると回った。座りこんでしまおうかと思ったが、スーツの膝の裏のシワが気になって、僕は立ったまま二本の煙草を吸った。

「そろそろだ。行くか」
「はい。よろしくお願いします」
 ミコの足元にはビニール袋があり、馬鹿正直にお菓子を数点買ってきたらしい。僕が運転席に座るとお釣りを渡そうとしてきたが、財布を取り出すのがおっくうで受け取るのを止めた。
 実際、商談後は甘いものが欲しくなる。個包装のお菓子を買ったのなら、いくらか分けてもらおう。
 僕は取引先まで向かうための路地ルートをもう一度確認しようと、座席中央のホルダーから携帯を手に取る。普段はホルダーに固定したまま使用するが、いくら後輩とはいえミコに暗証番号を見られるのに抵抗があった。

 携帯をホルダーに戻し車を発進させると、コンビニから出る間際になって、ホルダーごとブブブと振動する。
「狭山さん、携帯鳴ってますよ」
「知ってる」
「出なくていいんですか?」
「んん。この人、話すと長いから、次のアポに間に合わなくなる」
 もし急ぎの要件であれば、再度携帯が震えるだろうし、そもそも急ぎの要件なんてものは誰かしらの怠惰が理由である場合が多い。とはいえ、僕の怠惰が理由で、別の急ぎの要件が発生するのは面倒なものだ。
「たぶん次の商談は一時間もかからないから。終わったらかけ直すよ。ただ、もし途中で鬼電が入ったらサイン送るから。ちょっと離席させてもらうかも。そのときは代わりに話しておいてくれればいいよ」
「えっ? 私がですか?」
「もちろん、他に代わりはいない」
「無理ですよー。私まだ研修期間だし、商品も覚えきれてないし、今日の取引先だって、初めて行くんですよ?」
「無理じゃない。好きにやってくれればいい。もう着くから」
 路地に入り、取引先の駐車場に入れるまでの間に、もう一度携帯の画面が明るくなった。放置していると、着信の振動は途絶え、ロック中の待ち受け画面が表示される。
「狭山さあん、私無理ですって! ねえ! これ急ぎの電話ですよね? 絶対に、本当に、途中でいなくなるつもりですよね?」
「そのつもりだ。いくぞ」
 僕が離席する間、商談を進めておけとは言っていない。ただ、話しておけば良いだけだ。初めての出張で、上司に対して、ほくろがどうのだの、占いがどうのだの、愛想と話題を振りまけるのであれば大丈夫だろう。





つづく

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