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『小豆』

 少しくらい空気が冷えていても、ここでは、匂いを感じる。
 絵の具の匂いが、鼻の奥にある。中学校の美術室の匂いを、僕は嫌だとは思わなかった。大学の美術サークルのためのこの部屋でも、その匂いの種類は大して変わらなかった。その空間に、彼女が一人、混ざっていたとしても、その匂いは大きく変わらないのかもしれない。

 彼女は一人、絵を描いている。
 ちょうど賞状くらいの大きさの、小さなキャンバスに向かい、彼女は筆を動かす。絵の具の匂いばかりが僕の鼻に届いて、彼女の筆の音は聞こえない。それでも、エプロンの紐を腰で縛ったその少し上で、彼女の肩甲骨は動いている。彼女の着た深い小豆色のニット越しに、僕はその動きを知る。
 筆先の音は聞こえないが、彼女はそっと、少しずつ、キャンバスに色を乗せている。今回は、秋の並木道を描いているらしい。空気の中を通って届く、この絵の具の匂いのように、彼女の描く並木道からは、木々の枝や幹が香ってきそうだった。彼女がそこに、次の色達を乗せれば、地面の匂いさえ、僕は感じることになるのかもしれない。
 毎日、長い数式やギリシャ文字と格闘する僕に言える感想は、そのくらいのことだ。

 理学部棟の階上から降りてきた僕は、ここに足を向けた。
 自動ドアを出てからの帰り道に、サークル棟があり、時々僕はここに来る。開けっぱなしのドアから流れ出る絵の具の匂いを感じ、ドアのレールだけを跨ぎ、彼女のいる空間に立つ。

 5回生となってしまった僕と、この冬に卒業する彼女は、昨日から3ヶ月も無い期間だけ、僕と同い年になった。僕の誕生日はもう少し先だ。
 ただ、僕は美術サークルの一員ではない。同じ理学部で、化学を専攻していた友人が、彼女と同じ美術サークルの一員だった。友人は僕をここに連れてきた。たったそれだけのことで彼女と知り合いになった。それが、この小さな大学で、僕の身の回りに起きた事実だ。

 この春、その友人は、僕より先に卒業してしまった。
 昨年まで3人がいた空間に、友人の残り香は、ない。彼は化学の実験の煙のようには、ここにはいない。
 けれど、春からの僕は、それまでの習慣の一部を崩せずにいた。毎日通っているわけではないが、僕は、彼女と、彼女の絵の両方を見るために、繰り返しここに来ているんだと思う。

 一人研究室に籠もる僕と、いつも一人で絵を描く彼女は、こうして時々二人になる。もちろん、僕と同じゼミに他の4回生はいるし、美術サークルのメンバーは彼女だけではない。ただ、僕らは、帰る時間が人より遅い。ただそれだけのこと、なのかもしれない。


 僕がここに立っていても、彼女はしばらく筆を止めない。
 小さなキャンバスの前に立つ彼女の脇には、小さなヒーターがあり、時折それに指先をあてている。エプロン姿で立つ彼女の向こう側にも、たくさんのキャンバスが並んでいる。転がっているのでは無い、並んでいる。とても、大事な絵として、作品として。

 正確な人数は知らないが、サークルに所属する人の数からは、およそ想像できない程のキャンバスが並んでいる。その絵の中から、彼女の絵を見つけるのは容易だった。
 彼女の絵は、写真で撮ったような風景画なのだけれど、どこかの町の風景の一部を、彼女が見た視点として描いているのだと思う。歩道沿いの植木も、小さな橋も、誰かの行き交う交差点も。空から町を見下ろした構図だってある。それがどこなのかは、正確には分からない。けれど、そこにあるのは彼女の見る町だった。
 それは、彼女が実際に見た景色なのかもしれないし、彼女の瞼の裏に浮かぶ景色なのかもしれない。それを僕は知らないけれど、見える物を描こうとしてることだけは、なんとなく分かっていた。
 彼女の描き続ける、たくさんの絵を集め、貼り合わせていくと、いつか一つの町が出来てしまうのではないかと、少しだけ想像した。


 彼女は、彼女自身のタイミングで、腕を下げる。
 それまで僕は何も喋らずに、ただ、彼女とその絵を見ていた。僕がいつからここに居ようが、それを察知していなかったかのように、彼女は振り向き、口を開く。僕がここにいたのは、彼女が口を開く瞬間の、ほんの少し前のことだったみたいに。

「今日も、来たんですね。」

「今日も、というか、君の誕生日の翌日だからね。むしろ、昨日も少し覗いたんだけど、君、いなかったから。」

「昨日は、友達と少しだけ飲みに行ったんです。みんな就職も決まってるし、集まって祝ってもらえて、嬉しかったですよ。」

そう言って目を細める彼女は、眉間を指で撫でられた猫みたいで、可愛いらしい。

「それはよかったね。誕生日おめでとうございました。で、その翌日に、君はもう絵を描くんだね。」

「ありがとうございました。絵を描くのは、まあ、習慣のようなものです。」

 一度手を止めると、彼女のニット越しの肩は、少し下に落ちる。そのままの姿勢で歩いてくる。分類できないほどの色の乗ったパレットを、部屋中央の木製の机に置く。その机は、古びて角がとれている。
 机に付属しているであろう木製の椅子に腰掛け、空いた手で、僕にも椅子を勧めた。

 彼女は、時間を経験した色に染まるエプロンを外す。小豆色のニット姿になった彼女は、続きを口にする。エプロンは手に持ったまま、畳まない。

「サークルだから、今日で引退、というのも無いですし、私は絵を描きたいから、描いてるんですよ。文学部のゼミは週1で行けばいいので、理学部ほど時間に追われてないんです。」

「僕だって変わらない。人より少し取りかかりが遅かったのかもしれないけど、5年生になっても数学をやりたくてやってる。研究室に行かなくても、紙とペンがあれば、数学はできるから、家に帰っても時々手を動かしてるよ。」

「そんなに数学って、楽しいんですか?あ、そうだ。今日の数学のお話は?何かありますか?誕生日プレゼントに数学のお話でもしてくださいよ。」

そう言って、エプロンをざっと半分に折って机に置き、こちらに向き直る。僕は何を話そうかと、少し考える。

 僕が絵を見たあと、彼女はこうして僕に話すように求める。
僕が知っている数学の知識なんて、数学の全部の隅っこのようなところだ。数学の全部だって、まだ解明されていない。
 僕がやっているのは、小さな小さな定理を集めて、数学の隅っこのような、それでいて驚くべき定理に辿り着く。そうしたら、また次の数式を動かす。その先にはまた、小さな事実と定理が待っている。その繰り返しだ。それを、数学の隅っこの方でやっている。小さな事実を繋いでいるだけだ。

 それが彼女にとって意味があることだとは思えなかった。それでも彼女は、僕の数学の隅っこのような話を聞きたがった。

 彼女も小さな絵を沢山描く。小さな何かをよく見て、それ集めて、どうにかなるかもしれないと想像して、試行錯誤する。そういう意味においては、彼女と僕のやっていることは、大きく変わらないのかもしれない。
 だから、彼女は僕が絵を見ることを嫌がらないし、僕は彼女に話すのが嫌では無いのかもしれない。僕は、僕の知っている範囲のことを話すようにしている。

「んん-。じゃあ、君の誕生日。」

「はい。11月13日です。昨日でした。」

彼女は小さく手を挙げてそう答える。僕は頷く。だが、僕は彼女の先生ではない。何かを教えようと思って話したことは、一度も無い。

「じゃあ、数字の11と13について、知ってることはある?」

「んんー・・・」

 彼女が考えている最中は、喋らないようにしている。絵を描くときと同じだ。彼女は、僕が言ったこと―僕だけじゃない、人が言ったこと―に対して、考える時は、きちんと立ち止まって考える。そして絵を描くときの表情に、少しだけ近づく。

 口を開くときは、またその顔のパーツが緩む。

「はい、知ってます、素数です。」

「そう、11と13は素数。そいえば、11と13の二つの素数には、一つの名前が付いてる。『双子(ふたご)素数』って呼ばれてるらしいよ。」

「11と13は、双子ちゃん―なんですね。ちょっと可愛いですね。」

「んん。とても近い素数だから、双子素数。ある素数に2を足しただけで、また素数が出来たとき、その二つの素数には『双子素数』って名前が付いてる。例えば、5と7、17と19もそうだね。その次は29と31だ。君の11と13もそのうちの一つ、双子素数だ。」

 筆を置いた彼女は、少しずつ無邪気になっていく。
 絵を描くときより、顔を少し上に向け、名のついた素数を持つ日に生まれたことについて、考えているのかもしれない。彼女にとって、その呼び名は、可愛く思えるらしい。

「私の、11月13日―可愛い双子ちゃん素数には、何かいいことがあるんですか?」

「いいこと―かは、わからないけど、不思議ではあるかな。そもそも、素数っていくつあるか知ってる?」

「無限個ですよね。とてもたくさん。そして、ずっと続いてる。って、先輩が言ってました。私、少しくらいは覚えてるんですよ。」

自分の得意分野ではないのにも関わらず、彼女は誇らしげだ。それによって伸ばした背筋と一緒に、小豆色のニットの皺も幾分か伸びた。

「物覚えがよろしいようで。確かに、素数は無限個ある。じゃあ、その素数の一部である『双子素数』はいくつあると思う?」

「双子素数も、さっきみたいに時々出てくる。けど、飛び飛びだから、そんなに沢山は無いですよね。でも、そもそも素数は無限個あるんですよね。飛び飛びで現れるのに、無限個あるんですか?あれ?ちょっと分からなくなってきちゃった。」

「んん。君は勘が良いのかもしれない。君の言った通り、分からないんだよ。偉大な数学者とか、趣味で数学をやってる人、僕みたいな大学5年生―は、可能性が低いかもしれないけど―とにかく、誰が紙とペンを持っても、まだ証明には至っていない。双子素数が無限個あるかは、分かっていない。素数が無限個あるってことは、証明されてるのにも関わらず、ね。“分かってることの中にも、分かっていないことがある”みたいだ。」

誰にも証明されていないことはたくさんある。それには定理の名前すら付いていないものもたくさんある。分からないことは、僕の中にも、そこらじゅうにも、たくさんある。

「じゃあ、分かってなかったら、どう捉えればいんですか?私の誕生日について。」

「んんー。どうなんだろう。ただ、今は分からないという事実があるだけかな。それなら君には、その並木道の絵を描いている理由について、何か思いつく答えがあるの?」

僕のゆび指したキャンバスと、その前にある誰もいない空間を、二人で見る。

「それは、分かりません。たぶん、私が見てる物を描き続けたら、何かまとまりが出てくるかもしれないって。言葉で説明が出来ない物を、描き進めたら、何か見えるかもしれないって。ちょっと思っちゃってるだけです。」

 彼女はそこまで言って立ち上がった。「ちょっと、手を洗います」と、部屋の隅の流しまで、遠ざかった。分からなくなったら、少し遠ざかってみるのもいい。けれど今、この部屋の中から、彼女は出ようとしてるわけではない。

 部屋の隅で、彼女の「つめたっ」という声が、壁に当たる。その声は、その近辺にだけ漂って、すぐに消える。蛇口から流れる水の音が、僕には継続的に届く。


 彼女は、答えが有るのか無いのか、分からない物を、描こうとしている。
 しかし、双子素数の個数については答えが存在している。無限個か、そうでないかの、二つに一つだ。それがまだ分っていないだけだ。
 もしかしたら、僕と彼女は、同じ事をしているようでも、違うことをしているのかもしれない。


 彼女は、ポケットから小さなハンカチを取り出して、手を拭いた。指先が、少し、赤い。その手では、今日はもう描かないのだろう。

「寒い。手、冷たいです。」

「知ってるよ。だけど僕は、特に、君の手を温める道具を持ち合わせてはいない。」

彼女はハンカチをポケットに差し込み、また腰を下ろす。椅子の脚と床が擦れ、木の音がする。角の取れた机に肘を乗せる。そして、小さなアゴを、冷えた手で支える。

「ふうん。あ。そういえば、先輩は誕生日いつでしたっけ?」

「2月3日だ。」

「2と3。すごく近い素数じゃないですか。先輩も、双子ちゃん素数の人ですね。」

「残念ながら、それは違うよ。2+2は4だ。4は素数じゃない。2月3日は双子ちゃん素数の仲間に入れないんだよ。」

小さな顎が、残念そうな顔と一緒に、彼女の手の上から離れる。

「そっか。ちょっと、おしいですね。私と先輩は、どこか似てるのかなって、勝手に思ってましたけど、一部では、はっきりと違うのかもしれませんね。でも、素数は素数ですよ。しかも、2だけは、唯一の偶数である素数です。無限個の中の特別です。これも先輩が言ってました。私は、ちゃんと覚えてます。」

 顎を乗せる必要をなくした、彼女の指先はまだ赤い。僕の指先も、冷えてきた。絵の具の匂いは、ずっと同じように、冷えた空気の中でも鼻の奥にある。
 分かるとか分からないとか、似てるとか似てないとか。
 僕たちは、なんだか複雑な世界で、生きている気がした。それを自分の持つ数字で、払拭したい気分に駆られる。だが、あまりにも、その数字は小さい。2月3日。

「僕は特別な人間じゃない。2と3という、小さな方から数えて、最初の二つの素数を持って生まれただけだよ。」

「はい。小さくても、そうやって先輩は、ちゃんと知ってることはあるでしょ。その数字について。」

僕は話を、うまく続けられない。その様子を見て、今、確定している事実ではない話を、彼女は始める。

「一つ、聞いて良いですか?先輩は、卒業したらもうこの町には来ないんですか?」

「どうだろう。友達は先に卒業して遠い所に行ってしまったし、僕もこの町を出る。何かの理由がここにあれば、僕はこの町に来るかな。ただ、君だって、この部屋では絵を描かなくなるだろう?」

「はい。卒業したら、絵には関係のない仕事をするので。まあ、文学部ですし、そちらはそちらでやりたかったことですから、翻訳に関わる仕事をするんです。ただ、この町で働くから、住むところは、そのまま変えないつもりです。だから―いえ、いいです。」

 僕と彼女がどこに住もうが、来年の今日、僕らがこの部屋にいない確率はとても高い。来年の昨日、僕が別の匂いを感じようとも、僕らがここにいなくても。僕たちはそれぞれの数字を持って生きる。
 僕には僕の、彼女には彼女の数字がある。絵の具の匂いの充満するこの部屋で、僕は彼女の香りを近くで感じたことがない。見ていただけで、そうしようとさえ、していなかったのかもしれない。


「さて、今夜も冷えてきたし、帰りますか。」

彼女はそう言って、複雑になった思考を切るようにエプロンを手に取る。そのまま立ち上がり、歩を進めようとする。しかし、足を前に出さない。細めた目と一緒に、こちらに向き直る。

「ねえ、耳、赤いですよ。寒いんですか?」

「君だって、指が赤いよ。寒いの?」

僕らはこうして、無限が含まれるかもしれない、小さな世界を見ている。もし、それが有限だったとしても、小さな世界を、見ている。

僕と彼女が見る色は、今、小さくて、少しだけ、赤い。
 
 
 
 
 
 
(おしまい)

 
 
 
 
 
【あとがき】
 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
 少し小難しいことを書いてしまったかな、と思う部分もありますが、久しぶりに数学のお話をしっかり書きました。無限とか個数とか、少しざっくり書いたので、また数学のエライ人ごめんなさい。


 さて、このお話は、昨日11月13日─双子ちゃん素数─の誕生日を持つ方の影響を受けて書きました。


 金ときさんは小説を書かれています。正直、最初は驚きましたが、表現が似ているというか、僕の書こうとしていることと、似ているところが一部にあって、個人的に読むのがとても面白かったので。僕と同じ分野を、勉強してる方なので、何か通ずる部分があるのかもしれません。まだ全ては読み切れていませんが、ここまで読んでいただいた方には、個人的オススメです。
 それでは、金ときさん、一日遅れですが、誕生日おめでとうございました。あなたの誕生日と文章で、また1つの文章が書けたことに、感謝をこめて。
(あ、自分で調べて知ってる内容だったらごめんなさい笑)

おしまい。またね。
 

 
 

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。