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誰にも求められないものを作り続けることは「遊び」であるという発見

「誰にも求められない」という言葉は、わたしにとって、「お前は無価値だ」とか「死んでしまえ」とか「存在意義がない」くらいに強力なネガティブワードだった。

実際のところ何かしら構ってくれたり応援してくれたりする人はいるので、「誰にも」ってことはあり得ないんだけど、落ち込むと0か100かというような極端な思考になり、ダークサイドに落ちてしまう。

そんなんだから、集客や売上の数値がとても怖い。自分は無価値ではないという証拠を探したくて、ランキングやレビューを見て、また落ち込むことの繰り返し。イベントも講座も人が集まらないのがつらいし、かといって、来てとお願いして来てもらう(←この思考回路がもうダークサイド)くらいなら、やらないほうがいいし、むしろ、わたし、存在しない方がいいんじゃないかくらいにこじらせる。

そんなわたしがずっと何年も解決できていない課題。それは、依頼されていない小説を書くことで。小説家としてもっと活動の幅を広げるためには、こんな小説も書けるよと発信していかなくてはいけないと思ってる。応募できる賞もたくさんある。賞に受かれば編集者さんとつながれる。コンペみたいなものかもしれない。

ライター志望の人に「どうしたらライターになれますか?」と聞かれて自分でどんどん記事を書いてウェブやブログにアップすればいいと答えたりするけれど、それと同じことが自分はできていない。

今までそれを注文がないから書けない、求められていないのに書くのはつらいなんて言い訳してたけど、やっぱりやらなきゃ前へ進めないわけで。やろう。戦おう。求められていないものを作り続ける戦いをしようと決意したところでハッとした。

はたしてそれは、戦いなのだろうか。求められていないものを作り続けるって「遊び」のことなんじゃないだろうか。ただ作りたいから作る。夢中になって時間を忘れて没頭する。「戦い」の場合は、認めてくれない人の目を意識している感じがするけれど、「遊び」だと考えたら、他の人の視線も評価も関係なくなる。評価を気にしながら遊ぶ人はいない。意義も利益も考えない。世の中の新しいものはそうやって生まれてきたはずだった。

ここでいう「遊び」は気晴らしとか気分転換とかストレス発散とか、そういうのとは違う。何の義務も強制もなく、ただやりたいからやること。わくわくして力がみなぎって中毒みたいになる、何か。

小説を書く時間を確保しなくちゃと思い続けてきたけど「もっと遊ぶ時間を確保しなくちゃ」と言い換えたほうが、心が広がる。プロだから小説は遊びじゃないんだって思ってたけれど、遊びでいいんじゃないだろうか。お仕事は他のわたしに任せて、小説を書くわたしは遊び続けていればいいんじゃないだろうか。お金になるかならないか、評価やランキングがどうなるかも関係ない。できあがったものに、たまたま誰かが値段をつけるかもしれない。それは、作り終えたあとの話。

求められたいというのは他人軸の生き方で、安定した幸せは得られない。人の心は移ろうもので、他人のことはコントロールできないから。そうわかってからは、結構我が道を行く感じで生きてこれていたのに、作品に関してはそれができていなかった。

これからは遊ぶように小説を書いていこうと思う。出来ればそれ以外のことも。

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