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そろそろ人生という締切が迫ってきたから哲学する

最近、哲学が面白い。哲学を学ぶと、どうしたら自分にとってより良い人生を生きられるかを考える手がかりを見つけられる。一度しかない人生だから、人生が終わる前に解きたい。そして人生が終わる前に、それを実現したい。そう考えると、哲学は超自分ごとの大問題じゃないか。

なぜ今頃になって「より良い人生」みたいなことがわたしの中で問題になっているかというと、これまで信じていた説が次々崩れてなくなってしまったからだ。

もともと世間で言われる一般的な幸せ仮説には抗ってきた方だ。たとえば、「結婚して子を産むのが女の幸せ」仮説。他の人はそうかもしれないけれど、わたし自身は、子どもがいない人生のほうがよいとしか思えなかった。子を産んで育てたら10億円あげるからっていわれても揺らがないくらい、くっきりと、子どもがいない人生がよかった。

20代30代のときは「なぜ子どもを産まないのか」「子どもはいいよ」「産んだらわかるよ」と言われ続けてきた。「今はいいけど年を取ったときに後悔するよ」と脅された。子どもは欲しくないと言うと、非難されるような目で見られた。何でほしくないと思うのか、自分でもわからない。女としておかしいのか、人間としておかしいのか、生物としておかしいのか、と後ろめたい気持ちになった。でもあるときから、まあ、おかしくたっていいやと開き直った。

ようし、次に言われたら「病気なんです」って言ってやろうと妄想した。
相手「じゃあ早く病院に行きなさい。今不妊治療とかいろいろあるから」
わたし「子どもを欲しがらない病なんです。精神科ですかね?」

でも結局、そんな悪趣味なことはを言う機会はなく、妄想だけで終わった。40代になったからだ。まだ可能性はゼロではないけれど、妊娠の可能性が限りなく低い年齢になって、誰も子どもを産んだ方がいいよと言ってこなくなった。社会の方も変わった。子どもがいなくても放っておいてくれるようになった。生きやすくなった。

世間の幸せテンプレから抜け出すのは、本当に難しい。抜け出させまいとみんなが善意で全力で止めてくるし、抜け出したら、自分でどうしたら幸せになるのかを考えないといけない。道なき道をサバイバルしなくてはいけない。

今は「お金がたくさんあることが幸せ」「仕事がたくさんあるのが幸せ」というテンプレから抜け出したくてもがいている。ライター仕事は楽しいし、やりがいもあるのだけど、毎日毎日仕事に追われている日々は何かが違うような気がしている。わたしは小説家としては超マイナーだけど(依頼はない)、ライターとしては有能なので(自分で言うくらい)、仕事が絶えることがない。依頼も次々来る。大きな負担を感じながら断り続けている。

こんな愚痴を聞いてくれる人はあまりいない。「仕事があるなんて幸せじゃないか」「依頼があるうちが花」「お金はいくらあっても困ることはないんだから」「お金がいらないならもらってあげるけど?」とか。口に出さないけど、「仕事が多いって自慢?」って思ってる人もいるかもしれない。「仕事が欲しくて欲しくてたまらない人がいるのに贅沢を言うな」と言われることもある。

子どもも仕事も、欲しくて欲しくてたまらない人がたくさんいる。でも、わたしは欲しくない。人が欲しがるものを欲しくないって言うのは贅沢なのだろうか。それが贅沢なのだとしたら、わたしは贅沢をもっと言おう、と思った。

小さなころから欲しいものがなかった。誕生日プレゼントに何も思いつかなかった。大人になってもお金の使い方はよくわからないし、欲しいものもないから、ただただ貯金が増えていった。贅沢をしてみたいと思って、ちょっと奮発して良い服を買ってみたり高いご飯を食べてみても、あんまり満たされなかった。贅沢とは縁がないんだなあと思っていたけれど、今この日記を書きながら、そんなわたしでも贅沢できる方法が見つかってよかった、と思った。

みんなが欲しがるものを、わたしは欲しくないと言う贅沢。

贅沢というのは不平等だ。人との違いを際立たせる。贅沢は、自分の気持ちを抑えて横並びで人と同じように行動していると決してできない行為だ。人の目を気にしていても贅沢はできない。だから、ぱあっと非日常的なお金の使い方をするのも贅沢だし、みんなが欲しがって当たり前だと思い込まされているものを「欲しくない」と思うのも贅沢だと言えると思う。

欲しくないものを欲しくないって言えるようになったら、ようやく、本当に、自分が何が欲しいのかが見えてくるのかもしれない。

DIE WITH ZERO』を読んで、「老後の資金はいくらあってもいいから」と現在を犠牲にしてただただ蓄え続ける人生は違うなあと思った。依頼される仕事を次々こなせば充実感もあるし、お金も溜まっていく。そうすると何も考えなくてもいい。何も考えずに、たぶん10年とか20年とか、ごそっと過ぎてしまう。それでいいのか、よくないのか。よくないのだとしたら、違う行動ができるように、そろそろ動き出さないといけない。

そう考えると、わたしにとって良い人生は何かという問題が、差し迫った課題になってきた。どう生きるのが理想なのか、モデルケースはないだろうか。周りの人をいろいろ観察してみる。成功した人の本を読んでみる。当たり前だけどみんな、わたしと、境遇は違う。結婚していなかったり、子がいたり、仕事の目指すところも、考え方も全部違う。

一から自分専用に作らなくてはならないのかもしれない、と途方に暮れる。でも、いろいろ本を読んでいくなかで、これまで全然頭に入らなかった哲学の言葉が、ものすごく頼もしい手掛かりに見えてくる。人に話したら真面目に取り合ってくれないような疑問を、自分で解くための足場を作ってくれる。

なんでわたしは仕事の依頼がたくさんあって充実しているはずなのに、それでは嫌だと思ってしまうのだろう。小説を読んでいるとアイデアが湧いてくるはなぜだろう。手っ取り早くあらすじだけ知りたいとか、5分で結論だけ知りたいという人が多い中、それではなんだか駄目だと思うのだけど、なぜ駄目なのかわからない。

その答えが『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎・著)に書いてあった。

この本で名指している「退屈」は、生きることに伴う虚無のようなものだと思った。何のために生まれてきたのかという答えのない問い。わたしたちは、親が望んだり、国家や世間が子どもを産むことを推奨して、生み出されたけれど、わたしたち自身が生まれたくて生まれたわけではない。

何のために生まれてきたのかの答えは自分で作らなくてはいけない。その空虚から目を背けるために、わたしたちは目的の奴隷になる。仕事ばかりに追われている時、わたしは、この虚無=「退屈」について目を逸らして楽ができている。

というのはわたしに引きつけた読み方なので、わたしの要約ではなく、本を読んで國分さんの思考を体験してほしい。

最後に、この本のテーマの中心じゃないのだけれど、わたしがずっと考えて悩んでいることにも少しヒントがあった。何を悩んでいるのかというと、わたしが利己的すぎることだ。自分のことばかり考えていて、困っている人や苦しい境遇にいる人のことに対して何もしていなくて、かといってできることには限度があるし忙しいしと自分で自分に言い訳をして、別にそれで誰かに非難される筋合いはないとも思っていて、実際誰も非難するわけじゃないのに、自分だけ幸せでいようとすることを苦しく思ってしまう気持ちをどうしたらいいのだろう、という悩みだ。

退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害――私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。にもかかわらず、私たちはそれを思考しないようにして生きている(ドゥルーズはこう言っている。「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学の最も強力な動機のひとつである」)。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

後ろめたいような、さっさと逃れたいような、でも無視することができないような、このモヤモヤした苦しい感情に「恥辱」という言葉を当てはめると、視界がスッとひらけたような気がした。ああ、わたしは辛い境遇にいる人から目を背けていることが恥ずかしいんだと思った。だとしたら、恥ずかしいという、この落ち着かない気持ちは、わたしが人間である証拠だ。この気持ちをなくしたくないと思った。

 退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは〈暇と退屈の倫理学〉の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

まずは自分ごととして一生懸命考えてみようと思った。その先に、他の人のことを考えられるようになるのなら。そうして、それらの実践は、いつか小説にもなるのだろうと思った。


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