見出し画像

アジアの中の日本 シンガポール編

ここ数日間、森林の緑に包まれたタイの柔らかい空気の中に、どっぷり漬かった私にとって、シンガポールの空港の原色のネオンの輝きは、まるで全身に突き刺さるかのようで、思わず「痛い!」と声を出してしまうほどだった。

ちょうど農業社会から産業社会へと、人類文明の何千年間をタイムスリップしたようだ。

足を一歩踏み入れた時の、シンガポールの第一印象はそうだった。

そしてまた、「では何故、地理的にも近いタイとシンガポールでは、こんなにまでも違うのだろう。」という質問が自動的に浮かび、脳裏を刺激する。

その質問は私をまた、歴史と地理いう壮大なる時空間の中へ誘いつつ、魅了させながら、ゆっくりと同化していく。

アジア全体を見た時に、どうしても避けることができないのが西欧列強の存在である。

15世紀から始まった大航海時代から、17世紀前後からの植民活動、18世紀以降の産業革命や帝国主義政策によるオランダ・イギリス・フランスなどの東南アジア侵略の歴史は、アジア諸国全体にとって「傷」として残っていると同時に、各国の産業発展の土台となった事実は否定できない。

タイ帝国は、当時英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持し、植民地化を免れ、一方シンガポールは1826年イギリスの海峡植民地の一つとなって加速度的に人口が増加し、1965年以降には急速な発展を遂げ、アジア四小龍と呼ばれる韓国・台湾・香港と共に、その一国家として全世界から認知されている。

そんなシンガポールに「行きたい!」と思ったきっかけは、一冊の本との出会いであった。

そう、新しい出会いは、常に新しい方向性と創造を産む。

その一冊の本は、私にある観点への確信を与えてくれることになった。

韓国に嫁ぐと決めた瞬間から、個人のアイデンティティーを閑却し、「両国間の、歴史的な縺れを少しでも解くことができたら。」と思いつつ、日本という国家を背負いながら、日本人アイデンティティーを選択し今まで生活してきた。

しかし20年経った今、このアイデンティティーだけでは、どうも突破できない一つの限界を感じていた。

そんな時、歴史好きの同僚と共に、開発企画中の教育観光プログラムの下見で見つけた、西欧列強たちの「存在」と「その動き」が、限界を突破することができる方向性を与えてくれた。

まさしくそれは、当事国同士である日本と韓国という範囲内だけで物事を見るのではなく、日韓を含むアジア諸国すなわち「東洋」という存在に、その対称性として欧米諸国である「西洋」を付けて、物事を考えるということであった。

確かに18世紀以降、この東洋であるアジア諸国は、共通の脅威である西洋の列強たちの帝国主義による植民地化に脅かされていたのだ。

「欧米列強が植民地支配する手法は、常に「Divide and Rule(分割統治)」であった。

その土地の人々の分裂を広げ、人々の一体感を割くことである。それが、支配する側にとって最もリスクが少なく、最も効果的だった。」

以前読んだ本に、こう書いてあった。本当に、そうだ。

東洋であるアジア諸国は、西洋である列強の手法によって、土地が分離・分裂させられ、国家が分離・分裂させられ、人や人の心さえも分離・分裂させられてきたのではないだろうか。

その悲しみ苦しみは、アジア諸国全体の「涙」なのかもしれない。

その時から、私は変わった。

それは韓国を愛する日本人アイデンティティーはもちろん、それを土台とした、アジア諸国全体の「涙」を抱きかかえるアジア人アイデンティティーという、もっと広くもっと深いところからくる存在の在り方であった。

ちょうどその時、「アジアは中国・韓国だけじゃない」という本の帯の文字が私に訴え、今まで選択することがなかった本を開かせることになる。

その本は今まで私が生活の中で触れてきた情報とはまるっきり反対である、第2次世界大戦中の東南アジアでの日本軍に対する評価であった。

「1955年、後のタイ王国首相ククリット・プラモードは、日本による対英米開戦の日(1941年12月8日)のことをこう記している。

『日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日東南アジア諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。

それは身を殺して仁を成した日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心された日である。』」

これは当時のことを、中立国であるタイの首相がこう発言したという。

日本が「母親」で、東南アジア諸国が「子ども」だとは。 驚いた。

東南アジア諸国は、西欧列強たちの植民地として蹂躙され、自国の力では独立自体、到底難しかったということを表している文章だった。

「ある者はバナナの葉に包んだナシゴレンとココナツやヤシの果水を差しだし、ある者は南方の様々な果物を大きな籠に盛ってささげ、若者たちは先を争うようにして日本軍の弾薬箱を担ぎ運び、泥道で走行不能になったトラックを押し、ジャングルの獣道をたどる近道を先頭になって案内を引き受けた。

日本軍将兵はとまどい驚いたが、やがてマレー人の歓迎と協力の真摯な態度を知り、戦塵ですさんでいた気分を和ませ、感動し感激した。」

なんと、当時、マレー人の日本軍に対する協力は並大抵のものではなかったという。

それは、マレー半島では古くから伝わる「ジョヨヨボの予言」なる神話があったからだそうだ。

「北方の黄色い人たちが、いつかこの地へ必ず来て、悪魔にも等しい白い支配者を追い払い、ジャゴン(とうもろこし)の花が散って実が育つ短い期間、この地を白い悪魔にかわって支配する。

だが、やがて黄色い人たちは北へ帰り、とうもろこしの実が枯れるころ、正義の女神に祝福される平和な繁栄の世の中が完成する…」

こんな神話が、あったとは。

「英領マレー半島は、香港、インドという大英帝国の植民地のほぼ中間に位置し、東洋への重要な交通路・マラッカ海峡に面している。

そんなマレー半島を制することは、大英帝国のアジア植民地の心臓部へ楔(くさび)を打ち込むことになり、さらに大英帝国をこの地域から駆逐することは、欧米列強の圧政と搾取に苦しむアジア諸国の解放の第一歩であった。

マレー攻略戦、これこそが大東亜戦争の神髄だったのである。」

何やら、1941年12月8日日本時間午前3時25分開始時間のハワイ真珠湾攻撃よりも、1時間前である午前2時15分にマレー半島のコタバル上陸によるマレー攻略戦が先行していたらしい。

「開戦当初の敵は「英米」の順であり、「米英」ではなかったのだ。」

「1941年12月8日にマレー半島上陸作戦を敢行した日本軍は、電撃戦でマレー半島の英軍を駆逐し、翌年2月15日にはシンガポールを陥落させたのである。」

日本は当時のイギリス「大英帝国」を相手に戦い、55日間でその「大英帝国」から無条件降伏を申し受けていたとは。

今回の出張は、研修を受講されたタイにいる教育者の学校見学が中心ではあるが、その後シンガポールに行くことになれば、タイの上空からちょうどマレー半島を通ることになる。

この機会に必ずやシンガポールに立ち寄って、西欧列強を相手にアジアの代表として戦った当時の日本の軌跡を辿りたい。

そんな強い想いの下、遂にシンガポール行きが実現した。

シンガポール到着の次の朝、都会の建物の間を抜ける爽やかな風が、私たちを迎えてくれた。

その風は、この地が赤道から137㎞しか離れてないということを忘れさせた。

現地案内人として今回サポートしてくれることになった日本人女性は、「シンガポールは海に近いので風が多く、昼は建物に入ればエアコンもあるので、それほど暑さを感じずに生活しやすいですよ。」という。
東南アジアを愛して20年間、シンガポールでの生活は7年になるらしい。

東京の23区ぐらいの大きさでしかない都市国家であるシンガポールは、約75%が華人(移住先の国籍を取得した中国系住民)だという。

始めに向かったのは、セントーサ島博物館。

小さく分かれた館内は、散策しながら回れるようになっている。

丁寧に、一つ一つ回っていく。

ある館内に入った瞬間、昭和初期に流行っただろうと思われる日本の歌が流れて来た。と同時に、周りを見渡すと、あらゆる日本語の資料から「昭南島」と書かれた文字が、目の中に飛び込んでくる。

1942年2月15日から1945年8月15日終戦まで3年6か月間、なんとシンガポールは「昭南島」という日本だった。

その資料の中の「昭南島」の住民たちが、幸せそうに見えるのは、私だけだろうか。

これに似た写真を、韓国の浦項市九龍浦(クリョンポ)で見たことがあったことを、思い出した。

またその他の館内でも、前もって読んでおいた本の内容が、展示の仕方の違いはあったとしても確認することができる。

「1941年12月10日、英艦隊『プリンス・オブ・ウェールズ』及び『レパルス』は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本の海軍航空隊によって撃沈され、英東洋艦隊は開戦3日目にして壊滅した。」

高速航行中の戦艦を航空機だけで撃沈するという快挙は、世界戦史上初の出来事であって、その事実は世界を驚愕させた—という。

「『私は独りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった』
イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、戦後、その著書『第2次世界大戦回顧録』でマレー沖海戦の大敗北をそう回想している。」

また、イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーもこう述べている。

「『(略)東南アジアにおける英国の軍事的崩壊は、特別にセンセーショナルを巻き起こす出来事だった。それはまた、永続的な歴史的重要性を持つ出来事でもあった。
なぜならば、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴してきていたからである。
1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵ではないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の士気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。』(『毎日新聞』昭和43年3月22日付)」

マレー攻略戦は、英戦艦撃墜後も続く。

中でも世界最速電撃戦として世界戦史にその名を残す「銀輪部隊」という、当時石油資源の乏しい日本軍にとって、燃料を必要としない自転車部隊が、未踏のジャングルや無数の河川などを走破していったという話もある。(下.写真参照)

そして遂に、翌年2月15日シンガポールを陥落させた時の内実はこうだった。

「山下中将は、砲弾がもはや底を尽きかけていたにもかかわらず、日本軍の弾薬は無尽蔵であるように見せかけるため、あえて大量の砲弾をシンガポールの敵陣地へ…」

「後に山下中将は、こう記している『私のシンガポール砲撃は、ハッタリ。うまく的中したハッタリであった。わが軍の兵力は3万で敵の3分の1以下であった。シンガポール攻略に手間取れば、日本軍の負けであることはよくわかっていた。』」

映画「永遠の0」や「男たちの大和」でも感じることだが、当時の日本人は凄まじかった。日本以外の国からしてみれば、きっと「脅威」に見えたに違いない。

この「脅威」は、日本にとって海外の一つである韓国の地で生活する私の心に、外からも内からもあからさまに訴えてくる。

そして最後に、メインの館内に入る。

そこには山下中将が、英軍の最高司令官アーサー・バーシバル中将に、「イェスかノーか!」と全面降伏を迫るシーンが、等身大の蝋人形で再現されていた。

無条件降伏を承認しながら、会談の時間に遅れて来て、停戦時間を延ばしてほしいという英軍。

「そんなことで時間を費やし、味方の劣勢に気づかれてしまうと思うと、正直なところ私は気が気ではなかった。(中略)
早く結論へ持っていくために、私は通訳に『他のことは何も聞かなくてよい。イェスかノーか、君はただそれだけを聞けばよい』と、強い言葉で言った。」

命がけの、瞬間である。

歴史は、この「一瞬」によって決定される「一瞬」の連続の結果体なのかもしれない。

いつも思うことだが、人類歴史を直視するには、柔軟な精神力と、その精神力を支えることができる体力が必要だということを、つくづく実感させられる。

バスに乗って、次に、その山下中将が英軍に降伏を迫った歴史的な場所である、旧フォード工場記念館に行った。

「ここは、韓国の独立記念館のようだ。」

韓国からの若い訪問客がつぶやく。やはり、ここは旧フォード工場だからだろう。

そこには降伏文書をはじめ、当時の貴重な資料や写真などと共に、両将が相対した机などが再現されている。

ちょうどその日、近くの中学生が野外授業としてこの記念館を訪れ、与えられた時間内に一生懸命メモを取っていた。

その学生数といったら、ゆっくり観覧できないほどだった。

ここの存在目的は、シンガポールへの愛国心と民族主義を育てるための反日教育の現場のようだ。

その中でも日本軍によって残虐に殺されたであろう写真や、新聞などで掲載されたと思われる残酷な風刺画などに、数名の中学生たちが入れ代わり立ち代わり、いろいろな声を上げながら集まって来た。中にはスマートフォンで、その写真を撮る学生がいる。

そんな中でも、客観的で正確な展示も一部あった。

「シンガポールの占領後、F機関(*1)長・藤原少佐はファラ・パーク競技場でイギリス軍より接収した4万5000人のインド兵俘虜(ふりょ)を前に演説をぶった。

『日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。ただし、日本は一切の野心がないことを誓う。

インド国民軍、インド独立運動連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛の念をもって遇する。(略)』

これを聞いた数万のインド兵は大歓声を上げて乱舞した。かくしてインド兵4万5000人がこの日をもって日本軍の‘友軍’となったのである。インド国民軍(INA)がここに誕生したのであった。」

1943年6月、東條英機首相はインドの独立運動家チャンドラ・ボースに会見し、その翌月シンガポールにてインド国民軍の兵士に、閲兵した写真が展示されている。

「ONE GOAL—INDEPENDENCE」

まさに「アジア解放」という、日本の戦争目的を語る写真があった。

また、世界最速電撃戦の「銀輪部隊」の自転車もあった。

これで未踏のジャングルや無数の河川を超えて、1100㎞走り切ったとは。

「すごい!」と心の奥底から叫びたい想いを、抑えざるを得なかった。

なぜならば、反日教育受講中の学生が私の周りを塞いでいたからである。
 
歴史とは勝者によってストーリーテーリングされた、解釈の結果でもあるだろう。

日本に対する一方的な観点を吸収した学生たちが、館内から出口に向かう同じ頃、私たちもシンガポールの独立記念館を後にした。

この現実に錯綜(さくそう)された私たち日本人の脳裏と感情は、一切の言語を絶する。

次に向かったのは、高級住宅街らしい所にある「日本人墓地」であった。

そこの敷地内にある立て看板には、こんなことが書いてあった。

「南十字星の下、ここには、からゆきさん(*2)、戦前活躍した日本人、そして戦犯処刑者も眠っていて、明治、大正、昭和の日本人海外史が偲ばれる。」

1888年この地で成功した数名の日本人が英国植民地政庁に、私有地を日本人共有墓地として使用するよう申請し、3年後に正式許可を得て作られた場所だ。

その後1936年当時には、なんと4032人の日本人がこのシンガポールに移住していた。

「日本人社会はシンガポール社会に溶け込みつつ、当時進出していた諸外国と肩を並べた、ハイカラで余裕ある魅力的な「ソサエティ」となった。」

まずここには、鎮魂碑「殉難烈士乃碑」がある。
これは・・
「終戦後自決した参謀以下将兵の遺骨ならびに、チャンギ刑務所にて処刑された100人以上の日本軍将兵の血が流された土が納められている。」

その他にも「陸海軍人軍属留魂之碑」や「作業隊殉職者之碑」などと共に、南方軍総司令官寺内寿一元帥の墓や、マレー・シンガポール攻略戦を陰で支えたハリマオこと谷豊の石碑などもある。

しかし私たちは、これらのことに一切関心もなく、何も知らずにただ平気で生きてきた。

まるで終戦は、日本の魂の芽までも摘んでしまったようだ。

難産で母体を損ねたとしても、子供のために永遠なる愛で、温かく包み込み育てていけるのが、母親のはずなのに。

日本という母親は、そんなことさえも忘れてしまった、ちっぽけな存在になってしまったのだろうか。

当時、西洋の列強の中でも超大国であるイギリス大英帝国を相手に、唯一東洋の底力を見せつけ驚かすことができた、あの日本はいったいどこに行ったか。

山下将軍の下、55日という奇跡的な短時間で、ジャングルを駆け抜けた銀輪部隊の精神は、今でも日本人一人一人の中にきっと眠っているに違いない。

 
日本、これでいいのか。

いや、日本、こんなもんじゃない。

欧米列強によって蹂躙されたアジアの「涙」を抱えながら、和の精神である大和魂によって、再び全世界と全人類を、関係主義による集団知性体の愛の力で、きっと感動させられるに違いない。

何よりも、欧米列強の前に勇敢に戦い、散っていった日本の先人たちの高貴な大和魂を、決して無駄にしてはならないから。 

 
                                                    完

                        2016年2月14日  nurico

≪参考文献≫

「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが称賛する日本とあの戦争」井上和彦著

以下、上記書籍からの一部引用
「神本利男とマレーのハリマオ —マレーシア独立の種の撒いた日本人—」土生良樹著

「マレーの虎 山下奉文の生涯」ジョーン・ディーン・ポッター著、江崎信夫訳

「インパールを超えて—F機関とチャンドラ・ボースの夢」国塚一乗著

(*1) F機関
Friend,Freedom,Fujiwaraの頭文字を表す諜報工作機関。
メンバーは、マレーの虎ことハリマオ(谷豊)と神本利男という民間人や、優秀な若手将校からマレー語に堪能な60歳の実業家など含めわずか十数名。
マレー半島に布陣する英軍の7割の占めるインド兵に投降を呼びかけ、彼らをインド独立のために立ち上がらせることを目的とした。

(*2) からゆきさん(唐行きさん)
19世紀後半に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。

ここから先は

0字

¥ 100

拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡