田中角栄という民主主義の権化への誤解

小室直樹氏の本を読んでいて
これは自分自身も誤解をしていたのでメモとして残すことを目的とする。

田中角栄と言ったら、良いイメージも悪いイメージもあるだろうが、最終的な世間的なイメージは、ロッキード事件で賄賂を貰った悪い奴というイメージだろう。

もちろん、色々やっていた可能性はあるだろうが、最終的に裁判では決着が付かず、角栄が死んだのちに、最高裁が、ロッキード事件における起訴されていた内容、証拠は適法性がなかったと認めている。
しかし、それが報道されず、まだ有罪とも何とも決まる前から国民、メディアが有罪と決め込んでいた。

そもそも田中角栄は20代から熱心に法律を学び、8年間で23件の立法を実現した。
これは戦後最も多くの立法を行った議員である。
ちなみに、現代の国会議員が立法することはほぼほぼ皆無である。

なぜ角栄はそのようなことができたかといえば、“空気“を読まず、“忖度“せずに必要だと思うことを覚悟を持って実行したからに他ならない。

現代の日本の国会は、立法機関としての機能を全くなしてない。
ほとんどが官僚が作成している。
なので、国会で読まれる文章はほとんど事前に用意されたものを棒読みとなり、見るに耐えないくそ詰まらない議会となっている。
しかし、議会とは本来、議論をする場である。
事前に提出した内容ではないものは、基本的に問われた方が答えない。
議論や討論の意味が全くない。

しかし、角栄は常に自分の言葉で議論した。
間違うことも多々あっただろうが、国会の発言はそのような間違いを詰められないように、免責特権が認められている。
アメリカでは、法律を作ってみて、発言してみて、議論してみて、間違っているかどうかは、司法は判断することと区別し、三権分立をはっきりさせているが、日本では、議論の段階でも間違えることを許さず、しかもそれを許すかどうかを決めているのが世間という、民主主義のかけらもない状況である。

そのような世の中で、田中角栄は、世間に潰された。

ロッキード事件においては、角栄側に、検察側が作った証拠に対して、反対尋問の権利が与えられず、その証拠も、本来日本には認められていない、刑事免責というルールが適用された。つまり、裁判官と検察官がグルになって、日本の憲法にも法律にも記載のないルールを証言者に適用し、その証言を証拠として、角栄を一審、二審と有罪とした。

これは、列記とした憲法違反であり、裁判官と検察が癒着するというのは近代民主主義において絶対にやってはならないことである。しかし、それを実行した。

考えられることとしては、世間が早く角栄を有罪にしろというムードが凄かったからではないかと考えられる。そのような結果を出しても誰も怒らない。むしろ、無罪であるといった結論を出したものならば、司法の信頼が疑われる。といったような空気を読む行動があったのではないか。

そして、最高裁に角栄が上告して、争そうとしていたタイミングで死んでしまった。
死んでしまってはもう仕方ないから忘れようみたいな流れの中で、最高裁は最後に、そもそも出されていた証拠は“適法性“がなかったよね、と言ってこの事件を〆た。

実際に本当に何か悪いことをやっていたかどうかは分からない。やっていたのかもしれない。
しかし、裁判というのは、“きっとやっていた“で有罪にしてはいけないことは誰もが知っている。

そして、ロッキード事件がこのような背景だったことを誰も知らない。
このような社会で、民主主義や三権分立があると言えるのだろうか。

空気を読まず、忖度せず、本来の目的を全うしようとした政治家が、
三権分立ではない世間の中で、空気によって潰される。

日本の政治が腐っているという例を挙げたら枚挙にいとまがないが、
この背景は初めて知った。メモ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?