なぜ今はこのような社会なのか(江戸時代)

江戸1603年から1868年まで、約260年の歴史があるが、5代綱吉までの前期、8代吉宗から松平定信までの中期、19世紀前半から幕末までを後期とした場合、その時代時代を生きる人たちを具体的にどこまで想像できるかで、理由が見えてくる。

まず、前期は家康や3代家光が鎌倉、室町幕府が滅亡した理由を徹底的に分析し、それら幕府の落ち度を全て潰した形の制度、処罰、法律を作っていた。
武家諸法度、参勤交代や禁教令、慶安の御触書、そして国替などの仕組み、
これがシンプルにめちゃくちゃ素晴らしかった。
めちゃくちゃ素晴らしかったおかげで、前期は約100年、非常に安定した時代だったと言える。そして、100年も経てば、私たちが戦争が歴史上の話のように感じるように、江戸時代の人からしたら戦は、歴史上のお話となっている頃である。

そのような中、飢饉が起こる。

飢饉が起きた理由は多様な説があるが、今有力視されているのは、現代と比べて非常に雨が多かったからではないかということである。
雨は恵の雨ではあるが、灌漑施設が今ほど整っていない中で、雨が降りすぎると、綺麗な水が手に入りづらく、畑も田んぼも不作となる。
また、江戸時代は人口増加と共に、里山も増え、里山の木の消費量が、人口増加に間に合わず、禿山がたくさん出現し、それに伴い、洪水土砂崩れが発生するという悪循環が生まれ始めた。

つまり、人口増加率が高まると、それに伴い地力が減り、不作となり、不作となったタイミングで起こる自然災害によって、飢饉(収穫がほぼ0)が発生する。

そして、それに対して、しっかりと対処できたのが8代目の暴れん坊将軍の吉宗である。
正直、この頃は外敵もなく、これまでの平和貯金を切り崩せば国難を越えられる時期だったと思う。
その後、田沼意次や松平定信などが出てきて飢饉や富士山噴火などの国難に直面しつつ、何とか節約をしていくことで存続させていったが、18世紀末、外国船が頻繁に日本の港に来るようになり、内だけ見ててもやばいかもしれないという危機感が生まれてくる。

そして、そもそも日本とは何なのか、守るとしてもどこまで守る必要があるのか、守ると言っても実際どれくらい外国は強いのかなど、俯瞰して世界や社会が捉えられていなかった為、急ピッチで前提をしっかりと捉えようとして、先ほどの伊能忠敬などの話が出てくる。

そして、後期の国難として、
複数の欧米列強から植民地支配の危機
飢饉でめちゃくちゃ人が死んでる危機
陽明学によってクーデターが正義だと思う輩が全国に出現する危機
など、考えなきゃいけないことが沢山あって幕府の人たちは死にそうな日々だっただろう。

そんな中で、ペリーがクソでかい船を引き連れて開国してくださいよーって入ってくる。
正直、アメリカも黒船はハッタリで、そのような船が沢山あった訳ではないが、そのはったりにしっかりとビビった日本は、世間的にはあたふたするが、岩瀬忠震や川路聖謨など、めちゃくちゃ優秀な官僚がいた為、ちょっと見下されるが、想像以上に賢いぞこいつらという印象を欧米に与える結果となる。

この幕末の官僚たちの優秀さは、明治政府からすると賊軍となってしまう為、長い間評価されなかったが、現在はこの頃の外交は半端なく優秀だったとされる。

どう考えても戦争したらボコボコでアヘンまみれになってもおかしくなかった日本が、数十年かけて近代化していく為の時間を作ったのは紛れもなく幕末の官僚たちだからである。

現代でいえば、今のアメリカや中国が、めちゃくちゃな要求をしてきたとしても、それに対して、どれだけ対等な形で駆け引きができるかを想像すればその凄さが分かる気がする。

そういった苦悩や決断から学べることは非常に多い。

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