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私たちは神の前で踊る

以前読んだ、ジョーゼフ・キャンベル著の「神話の力」の作中に、世界の宗教団体のリーダーが集まる会議に出席した時の、ある一場面が紹介されていた。
 
僕の中で一番記憶に残った箇所だった。それは、日本の神道に関わるものだったから。著者が神道のリーダーに質問をした際の、その回答が、表題のものだ。

「私たちは神の前で踊るだけです。」

前後の内容は詳しく覚えていないが、セム系一神教の宗教観とは、その考え方と認識の方法は、全く異なり異質なもの(快不快、善悪、是非を超えての意味で)であることを、著者も記していた。
 
また、禅を世界に広めた鈴木大拙氏の著作である「宗教とは何ぞや」の中では、
 
「宗教とは、人間を各種の奴隷状態から解放するもの」

と書かれていた。異論反論、それぞれの読み手の中では、考え方の衝突等々が起こりそうな見解かもしれない。禅を通して、大学や世論で教える立場などを通じて、たどり着いた「広義の答え」みたいなものいえるのかもしれない。僕は、僕の感じ方を書くことだけしかできないが。

前述の「神話の力」を読んでみて、日本国の成り立ちも、その神話の上で構築されていることに気が付いた。古事記、日本書紀、などなど、僕たちが意識しないところでの、伝統と行動様式、生活様式、様々な慣例、思い込み、「そういうもの」というみなし方、考え方、等々が、生きる上での判断の根底にしっかりと流れている気がしている。
 

そんなことを思いついた時、ふと科学の領域では、どのような見解があるのかを調べてみたことがある。県の図書館で、こんな本を見つけた。ベンジャミン・リベットの「マインド・タイム」、脳と意識の時間を扱った学術書だったと思う。
 
その中では、確か、無意識と意識の割合というか、僕たちが知覚する、判断を行う時の割合的なものが載っていた。衝撃だったが、簡単にすると、1:100万ビットくらいの割合で、無意識に軍配が上がっていた。
 
これをどう解釈するか。別に、僕たちの日常生活に何か劇的な変化があるわけでもないし、意識してもしなくても、無意識は北斗の拳みたいには使えない。

でも、もしこの研究者の証明が全人類に当てはまるのなら、僕たちの行動様式や生活様式、考え方などを意識的に変えなければならないのではないか、とも思った。
 
科学第一主義的、論理思考第一主義的、さらには、加速主義、新自由主義、しっかりと残っている恩顧主義、等々、色々な考え方が衝突している現代ではある。

そんな中で、僕は日本的でもある神に祈らない、依存しない
「神の前で踊る」という表現がとても好きだ。


 

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