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Anything you see in me is in you.

 ネットでニュースを流し読みしていたときのことだ。やまゆり園事件の被害者である一矢さんが、サービスを受けながら一人暮らしを始めたという記事を見つけた。

 彼のサービス支援者の大坪さんは事件前、重度障がい者とのやりとりで思うようにいかない自分の介護に疑問を持ち始めていたという。事件が起きたことから介護への自信がなくなったが、一矢さん家族がこの一人暮らしにあたって支援を依頼。大坪さんは再起して一矢さんの一人暮らしを実現した。「これが植松容疑者に対する答えです」と家族は記す。
 この答えにほっとした自分がいた。

「彼らはまるでリトマス試験紙のように、良い社会なら良い顔に、悪い社会なら悪い顔に変わるというのだろうか。」

インベカヲリ★(2022年)『「死刑になりたくて、他人を殺しました」無差別殺傷犯の論理』
イースト・プレス

 私は殺傷事件を追いかける方だ。テレビでは事件が起きたことのごく一部しか流れない。だがネットでは信用性はともかく、経緯や現在の状況を継続的に見ることができる。
 事件はいつもなんとなく起きるわけではない。そこに至るまでの小さなストレスの積み重ねが、ある日爆発したようにして起きている。そしてこれは事件を起こした者だけでなく、そこに関わった者、ひいては自分を含む社会もそのストレスの一部だと思っている。
 そういった責任的意味で追いかけるというわけではないが、もしかしたら自分も起こしたかもしれない出来事として見過ごせないし、他人事に思えないのだ。

 タイトルは、そんな私を見透かしたかのようなシリアルキラーのチャールズ・マンソンが語った言葉の断片である。

Anything you see in me is in you.(私は、あなたの中にも存在する。)

H.Nakajima(2019年)『シリアルキラー展2019』ヴァニラ画廊※パンフレット

 事件は被告人が刑罰を受けたり、死刑になったりすれば終わりではない。その原因が残るならば、また人を変えて繰り返されるだけだ。被告人は起こした罪の代表であったが、社会を含めた関係者はどうだ。私はどうだ。挙げた本で被告人と関わる方も、その原因と未来に向けて向き合い続けていた。そんな中での記事だった。

「人を殺すことの中に、自分が死ぬことも入っている」と、書中で阿部恭子さんは語る

 だが正直事件を追いかけていて、自分が納得いく答えは見つからないままだった。あるスレッドで「事件を起こした人は支援を受けられるが、そうじゃない人は何もない。」といった内容のものを見かけたがその通りで、このままだと私でも私じゃない誰かでも、また同じような事件を起こす。わだかまりを拭えない焦燥と、1人ではどうしようもない諦めを抱えて生きていた。
 だから一矢さんが一人暮らしに至るまでのとりくみと実現は、この見えない不安への答えでもあって安心した。届くかはわからないけれど、感謝したい。

 やまゆり園事件は7月26日で7年が経つことになる。宮崎駿の話題作ではないがどう生きるかを、関わった社会の一人として忘れないでいたい。


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