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大臺神楽闇夜 1章 倭 降り立つ闇 2

「で、月三子が二人、水三子は四人もおって誰もおらんとはどう言う事じゃ。」
 ジロリと伊都瀬が神楽達を睨め付ける。
 六人は揃って伊都瀬の前で正座をさせられお叱りの真っ最中である。勿論第二城門の前であっては迷惑と伊都瀬は案内された寝所で此の六人を集めての事である。
「我は寝ておったから関係ないぞ。」
 神楽が言った。
「そうじゃ、我はちゃんと神楽を見ておった。」
 吼玖利が言う。
『そんな言い訳が通ると思うてか !』
 伊都瀬が床を力一杯叩く。ドン ! と、大きな音が響き渡る。神楽と吼玖利はソッと視線を逸らした。
「大体は其方らがだらし無いからこんな事になるんぞ。其れもこれも其方ら月三子が弛んでおるからじゃ。」
 と、水豆菜と榊を睨め付ける。
「わ、我等は花水を飲んでおっただけじゃ。ーーのぅ。」
 と、水豆菜は榊を見やる。
「そ、そうじゃ。其れに奈木乃がもっと早うに戻って来ておれば問題なかったんじゃ。」
『人の所爲にするでない。』
 更にもう一度、伊都瀬は床を叩く。水豆菜と榊もソッと視線を逸らした。
「分かっておるのか ? 今回の朝廷はいつもの様に気楽な物ではないんぞ。我等は舞を披露しに来たのではないんじゃ。」
 と、伊都瀬が言うと神楽はキリッとした目で五人を見やった。
「全く、伊都瀬の言う通りじゃ。我も其方らは惚け過ぎじゃぁ思うとったんじゃ。大体今回の朝廷は出兵の為の朝廷ぞ。其れがどうじゃ、其方らを含め皆遊び気分では先が思いやられるぞ。」
 更に便乗して神楽が言った。神楽の此の言葉に一同驚いて神楽を見やる。
「其方正気か。」
 思わず伊都瀬が言った。
「神楽も十分惚けておったでは無いか。」
 馬木羅が言う。
「何を言うておる。我は惚けてなどおらぬ。大体じゃ。我は其方らの様にチャラチャラと舞いを披露したりせんのじゃ。」
 神楽が誇らしげに言い返す。
「猪が何を言うておる。」
「そうじゃ、猪が偉そうに言うでないぞ。」
 続けて日梨香が言った。
「何が猪じゃ。我は其方らの様にチャラチャラしておらんだけじゃ。」
「猪じゃから披露できんだけであろう。」
「そうじゃ、そうじゃ。神楽は猪じゃ。猪じゃから披露できんのじゃ。」
「其方らは何を言うておる。神楽は猪では無いぞ。神楽は舞の名手じゃ。」
 と、吼玖利が言い返した。
「名手 ! 名手が聞いて呆れとるわ。土団子が名手になれるはずがないであろう。」
「まぁ、残念じゃが、優雅さが全くないの。」
 水豆菜が横槍を入れる。
「まぁ、猪じゃ。」
 榊が追い討ちをかける。
「猪。」
「猪。」
「名手じゃ。」
「猪。」
「猪。」
 ピクリと伊都瀬の口元が引きつく。
「猪。」
「猪。」
 更に、更に…。ピクピクと口元が引きつく。
「名手じゃ。」
「猪。」
「猪。」
『やかましい !』
 そして、声を張り上げ力一杯両手で何度も床を叩いた。
 ドン!ドン!ドン!と大きな音が寝所に響き渡たる。
「其方らは一体何を話しておる。今は舞の話をしておるのでは無いであろう。」
「そうじゃ、今は舞の話などどうでも良いんじゃ。我の事を猪と言う前に先ずは反省すべきじゃ。」
 又神楽が便乗して言った。
「其方も少し黙られよ ! 大体其方が詰まらぬ事を言うから話が逸れるのであろが。」
 と、神楽を睨め付け言うと神楽はシュンと頭を垂れた。
 それから伊都瀬の小言が長々と続く。神楽達は岐頭秘奥義、聞いている振り、怒られている振りを駆使するが足が痺れて如何にもならない。普段は立て膝で座る娘達にとって正座は非常に苦痛なのである。神楽が大きなお尻を上げて下げる。お尻をモゾモゾと動かし何とか切り抜けようと試みるが無駄な努力である。吼玖利も日梨香も馬木羅も水豆菜も榊もお尻をモゾモゾと動かし落ち着きが無い。それを尻目に伊都瀬は更に苛々を募らせる。
 正直神楽はウンザリである。
 どうせ誰も聞いていないのだ。聞いていないのだからほどほどで良いでは無いかと思っている。それは水豆菜達も同様である。だが、伊都瀬はあーだ、こーだと責め立てる。
 だが既に神楽はその内容を把握していない。否、そもそも何故自分が叱られているのかすら分かっていない。
「しかし、今日はやけに長いのぅ。」
 と、こそり。
「あれの日では無いかと我は思うておる。」
 と、吼玖利がこそり。
「もう無いであろう。」
「まだ、現役じゃぁ言うておったぞ。」
「誰がそんな適当な事を言うておったんじゃ ?」
「華咲じゃ。」
「母上か…。ー全く、あの二人は蜜じゃ。」
 蜜とは恋仲の事である。
「何と。しかし伊都瀬は乱暴な娘は嫌いじゃぁ言うとったぞ。」
「母上は娘では無い。猫化けじゃ。」
「うむ。華咲は猫化けじゃ。」
『何をコソコソ話しておる !』
 伊都瀬が床を力一杯叩き、その音に負けぬ程の声を張り上げ言った。
「な、何も話しておらぬ…。」
 と、神楽と吼玖利はシュンと首を垂れる。そして又伊都瀬の小言が続く。
 ガミガミ、ガミガミ。
 ガミガミ、ガミガミ雷様である。
 そしてその一部始終を隣の部屋で聞き耳を立てて聞いているのが香久耶と奈木乃、そして空理である。
「しかし、神楽は阿保じゃのう。」
 クスクスと笑いながら空理が言った。
「お姉ちゃんはジッとしよるのが苦手なんじゃ。」
「少しは黙っておれば良い物を…。」
「それが出来んのが神楽じゃ。」
 笑いながら奈木乃が言う。
「じゃが本当なんじゃろか?」
 香久耶が言う。
「何がじゃ ?」
 チロリと香久耶を見やり空理が問う。
「母上と伊都瀬じゃ。」
「何じゃぁ、其方は星三子…否、娘のくせに知らぬのか。」
 奈木乃が言う。
「我は知らんぞ。」
 大きな目をクリクリさせながら香久耶が答える。
「華咲と伊都瀬は蜜じゃ。」
 空理が言った。
「本間か ? 本間なんか。うわぁぁ…。知らんかったぞ。」
 と、胸中ドキドキさせながら香久耶は聞き耳を立てた。すると何処からかトントン、テンテン、トンテン、トンテンと音が鳴っているのが聞こえた。香久耶は此の音に関して興味を示さなかったが、大の演劇好きを自称する神楽にはこれが演劇の始まる合図であることが直ぐに分かった。
 ピクピクと神楽の耳が動く。
「吼玖利。今日は何日じゃ ?」
 と、こそり。
「今日 ? うーん。末国の集落に立ち寄って、舞を披露して、長居をしておったからのう。恐らく七日じゃ。」
「七日…。それは遺憾ぞ。」
「どうしたんじゃ ?」
「急用じゃ。」
 そう言うと神楽はソロリ、ソロリと大きなお尻を動かし廊下の方に身体を移動させ始めた。
「これこれ、何をしておる。」
 袖をギュッと掴み吼玖利が問う。
「急用じゃ。」
 袖をグイグイ引っ張り、手で離せと合図を送る。
「駄目じゃ。」
「良いから離すのじゃ。」
「駄目じゃ。」
「離されよ。」
「駄目じゃ。」
「は…。」
 と、ここで何とも恐ろしい気配を感じた神楽はスーッと伊都瀬を見やった。
 真っ黒な闇が一瞬神楽の視界を奪う。次いで真っ黒な闇はおどろしい陰となりグイグイとウネリながら伊都瀬に巻きつき神楽を睨め付けた。額から冷や汗がたらりとこぼれ落ちる。
「鬼じゃ。」
 思わず神楽がボソリ。
「誰が鬼じゃ。」
「…。」
「全く落ち着きのない娘じゃ。」
「な、何を言うておる。我は出来た娘じゃ。」
「ふん。まあ良い。長々と話した所でどうせ聞いておらんじゃろうからな。」
「そう言う事じゃ。こう言う話は手短にすべきじゃ。」
 と、神楽は腰を上げ立ち上がろうとするが長時間正座していたので足が言うことを聞かず前のめりに倒れ込んだ。
「はあぁぁ…。まぁ良い。我は疲れた。其方らは三子を見つけ陣を張らせよ。良いな。」
 と、伊都瀬はそう言うと早々に腰を上げ隣の部屋に入って行った。
「はぁぁ、面倒いのぅ。今から三子を…。え…。ええええええ !」
 と、水豆菜達は声を張り上げ隣の部屋を見やった。
「まぁ、そう言うことじゃ。其方らは頑張られよ。」
 と、神楽はハイハイしながら廊下に出て行った。
「ちょ、何を言うておる。其方も…。」
 と、神楽を止めようと身体を動かした水豆菜達も神楽同様足が言う事を聞かず前のめりに倒れ込んでしまった。いち早く身体を動かしていた神楽は既に足の感覚が戻っていたのでそそくさと寝所を後に町に向かって走って行った。
「く、吼玖利…。神楽を止めよ。」
「無理じゃ。我は動けんぞ。」
「むむむ…。これはズッコじゃ。」
「そうじゃ、ズッコじゃ。」
 と、日梨香は痺れる足の痛みに耐えながら隣の部屋に向かう。
「伊都瀬、伊都瀬。大変じゃ神楽が逃げおった。」
 なんとか戸を開け日梨香が告げ口をする。
「神楽がなんじゃ ?」
「逃げおったんじゃ。」
「別に神楽は良いであろう。」
 団子をパクリと頬張り伊都瀬が言う。
「何でじゃ ? 何で神楽はええんじゃ。」
「神楽は我の護衛じゃ。出兵組ではないであろう。出兵組の管理責任は出兵組の月三子、水三子の責任じゃ。それに神楽は既に香久耶の護衛を務めておる。」
「香久耶の…。」
 と、日梨香は町の方に目を向け、空理は驚いた様に横を見やった。
「香久耶は何処じゃ ?」
 慌ててキョロキョロと周りを見やり空理が問うた。
「そう言えばおらんのう。」
 不思議そうに奈木乃が答える。
「我に悟られず行動を取るとは、あの娘も中々にやりよるのぅ。」
「空理が鈍なだけであろう。」
 と、奈木乃がクスリと笑う。
「何を言うておる我は陰三子ぞ。」
「我は草三子じゃ。」
「草三子が偉そうに我を馬鹿にするでないぞ。」
「鈍な香久耶に気づかん鈍鈍が何を言うておる。」
「其方も気付いておらなんだであろうが。」
「我は草三子じゃからええんじゃ。」
「何がええんじゃ。香久耶を守るは其方らの使命であろうが。」
「香久耶を守るは神楽の仕事じゃ。大体偉そうに我に説教するでないぞ。」
「偉そうも何も我の方が位は上じゃ。」
「上も何も空理は別子ではないか。」
「別子であっても位は上じゃ。」
「何を言うておる。正子の方が偉いんじゃ。」
「偉いに正子も別子も関係ないであろうが。」
「関係大有りじゃ。正子の三子は偉いんじゃ。我等は戦に行くんぞ。」
「な、何を言うておる。我等は常に国の治安を維持しておるんじゃ。其方等など今の今まで舞を披露しておっただけではないか。」
「何じゃぁ、朝廷に呼ばれんから言うて僻むでない。」
「馬鹿を言うでない。我とて一、二回は選ばれておるわ。」
「我は十回じゃ。。」
 奈木乃はニンマリと笑みを浮かべる。
「十回が何じゃ…。」
 と空理が言った所でどんと大きな音と共に’うるさい !’と唸るような声が響いた。伊都瀬が団子を壁に投げつけ怒鳴ったのだ。
「其方らも少し黙られよ。大体何故其方らが其処におる。役目をほっぽらかして聞き耳を立てるが別子の勤めではないであろう。奈木乃も奈木乃じゃ、さっさと陣を張りに行かれよ。」
 と、伊都瀬が言うと二人はシュンと首を垂れた。
「何じゃぁ、今日は機嫌が悪いのぅ。」
 と、奈木乃がボソリ。
「恐らくアレの日じゃ。」
「何を言うておる。アレは既に無いはずじゃ。」
「いや、現役じゃぁ言うとったぞ。」
「それは嘘じゃ。」
「まぁ、我もそうじゃとは…。」
 と、空理が言った所で又ドンと壁がなった。そして’現役じゃ !’と、伊都瀬が大きな声で言った。そしてそれを聞いていた水豆菜、榊、吼玖利、日梨香に馬木羅がジロリと隣の部屋を睨め付けた。
「何じゃぁ、其方らはそんな所で聞いておったんか ?」
 水豆菜が言う。
「そうじゃ、性格の悪い娘共じゃ。」
 榊が次いで言う。
「本間じゃ、呆れて物も言えんぞ。」
 と、娘達が又ギャアギャアと騒ぎ出す。そして今度は戸と壁が同時に大きな音を鳴らした。
「さっさと行動に移られよ !」
 疲れ切った声で伊都瀬が言った。三子達はこれ以上怒らせてはとそそくさと寝所から出て行った。

*    *    *    *    *    *    *    *   *

 さて、演劇場に向かう神楽を追いかけ寝所を後にした香久耶は大声で神楽を呼び止めていた。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん。どこに行くんじゃ ?」
「おお、香久耶ではないか。我は演劇を観に行きよる。」
「演劇か。我も行くぞ。」
 何ともにこやかな表情で香久耶が言った。
「何じゃぁ、其方も演劇に興味を持つ年になっておったか。では、ついてくるが良い。」
 と、神楽が手を差し出すと香久耶はその手をギュッと掴み二人は演劇場まで走って行った。  
 出国の演劇場は町の中心部分に設けてある。それだけ多くの民に支持されている娯楽であると言うことだが、多くの人が想像するそれではない。
 大きな広場の中心にそれはあるのだが屋根もなければ当然小屋なんてものも存在しない。あるのは畳九枚分ぐらいの大きさの台を縦に並べただけの簡素な舞台があるだけである。そして、残念なことに見物席と言うものも存在しない。椅子と言う物が存在しないからだ。演劇を観る者は皆地べたに座るか立って観るのが普通なのだ。だから演者はより多くの人に見えるようにと台の上で演じるのである。
 台の上に上がり縦一列に並んだ演者が手振り身振りで台詞を言い合い話を進める。其処に木をクリ抜いただけの簡素な楽器で場の雰囲気を作り上げ観ている者を魅了していくのである。
 其れは詰まらんだろうと思うかもしれないが、これが意外と見ていて楽しいのだ。当然だが誰がやってもと言うわけではない。台詞の言い回しや其の時の状況を如何に表現するかで臨場感は激しく変化する。だからそれを上手く表現できるか出来ないかで其の劇団の評価が決まるのだ。勿論其処に奏者の腕が絡み最高の劇が完成するのだ。全ては見れば分かる。体験すれば鳥肌が立つ。それが演劇である。
「お姉ちゃん。演劇場の場所は知っとるんか ?」
 町中を駆け足で進み乍ら香久耶が問うた。
「当たり前じゃ。我は何回も来ておる。」
「何回も ?」
「我は公務で全国を行きよる。」
「公務…。ひょっとしてほっぽり出して観に行っておるんか ?」
 首を傾げ香久耶が問う。
「我がおらんでも伊都瀬は大丈夫じゃ。」
「そう言う問題では無いじゃろう。」
「五月蝿い妹じゃ。我が大丈夫と言うておる。それに町に入れば別子がおる。」
「まぁ、そうじゃが…。其れより今日の演目は何をするんじゃろうな。」
 と、香久耶が言うと神楽は暫し耳を澄ませ、“この演奏は東方遠征じゃ“と言った。
「東方遠征 !」
 思わず香久耶は声を張り上げ言った。
「そうじゃ。急がねばならん。」
「お姉ちゃん。其れ一番人気のやつじゃろ。初代大神が出雲を攻めに行くやつじゃ。」
「そうじゃ。予備知識は万全のようじゃな。」
 と、言うと神楽達は走る速度を上げ全速力で走り出した。
 其れから暫し進むと演奏の音が大きく耳に届き始める。ドキドキと香久耶の鼓動が高鳴っていく。初めての体験。神楽が興味を持つ演劇に香久耶は興味津々なのだ。
 何よりも誇れる姉。
 頼りになる姉。
 自分に無い物を持つ姉。
 香久耶にとって憧れであり、超える事のできない存在である神楽が興味を持つ演劇。神楽が興味を持っていなければ恐らく香久耶は演劇に興味を示さなかったかもしれない。何より神楽と公務以外で出歩ける事が香久耶にとっては嬉しかった。だが、その嬉しさを無残に打ち壊す現状が目の前に立ち塞がった。
「何と…。」
 と、神楽は演劇場の大分手前で立ち止まり、訝しい表情で前方を見やった。
「人で壁ができておる。」
 と、香久耶はゴクリと生唾を飲んだ。
「此れでは何も見えんでは無いか。」
「これ、皆演劇を見よるんか ?」
「演劇場はこの先じゃ。と言う事はそう言う事じゃ。」
「此れでは何も見えんぞ。」
 残念そうに香久耶が言うと、“我に任せるのじゃ。“と神楽は香久耶の手をギュッと握り壁に向かって歩き始めた。
「お姉ちゃん。どうするつもりじゃ ?」
「よく見るのじゃ。見物の殆どは三子じゃ。」
 と、神楽はグイッと三子達を掻き分け乍ら無理やり前に進み始める。
「何じゃぁ、押すでないぞ。」
「怒るでない。香久耶が演劇を求めておる。」
「香久耶 ? おぉぉ、神楽ではないか。香久耶も一緒なんか。」
「そうじゃ。」
「仕方ないのう。ほれほれ神楽が香久耶を連れておる。前を開けられよ。」
 と、三子が前方の三子達に声を掛けた。
「神楽 ?」
「神楽 ?」
「香久耶も一緒なんか。」
「仕方ないのう。ほれほれ通るのじゃ。」
 と、三子達は気前よく神楽と香久耶が通れる隙間を作ってやった。そのお陰である程度前方まで進む事ができたが、其れより前は一般の見物客で占められていたので香久耶は仕方ないと諦めた。
「すまぬがちょいと通して欲しいのじゃ。」
 だが神楽は違った。
「お姉ちゃん。我はここで良いぞ。」
「何を言うておる。初めての演劇は一番良い場所で観るものぞ。」
 と、神楽はグイッと人混みを掻き分ける。
「こらこら、常識のないやつだ。良い場所は早い者勝ちだぞ。」
 と、神楽の図々しい行動に男が嗜め言った。
「すまぬ。妹が一緒なんじゃ。通り一遍泣いておくのじゃ。」
「妹 ? 何だ神楽ではないか。」
「おお、彦介殿ではないか。今日は妹が一緒なんじゃ。」
「妹 ? 例の星三子の妹か ?」
「そうじゃ。今日が初めての演劇なんじゃ。」
「そう言う事なら仕方ない。神楽が妹を連れておる。通してやってくれ。」
 彦介がそう言うと、“神楽が妹を連れておるのか“と、見物客がジロジロと神楽と香久耶を見やった。
「香久耶は今日が初めての演劇なんじゃ。」
 と、神楽が皆に言うと、“そう言う事ならほれ一番良い場所で見るが良い“と神楽と香久耶を一番良い場所に迎え入れてくれた。
「どうなっておるんじゃ ?」
 予想だにしない結果に香久耶は戸惑った。
「ここにおるのは皆演劇仲間じゃ。」
 神楽が言った。
「演劇仲間 ?」
「そうじゃ。神楽はわっち等の仲間。よろしくじゃ。」
 と、香久耶の横にいる女が言った。
「あ、よろしくなのじゃ。」
「わっちは堀部のにに。皆は文と呼んでおる。」
 堀部のににとは堀部の妻もしくは堀部の娘と言う意味である。卑国の娘達には名前があるが他国の女には名前と言う物が無い。だから女は総じてににと呼ばれている。そして誰のににであるのかを教えるため‘誰々の‘をつけるのである。だが近年では近しい間柄や特別な集団の中では仇名で呼ばれるのが主流となっている。この文と言うのも仇名である。
「文殿か。我は香久耶じゃ。」 
 と、言うや否や方々から声を掛けてくる見物客に香久耶は戸惑った。
「ほう、神楽にそっくりだな。文の旦那の堀部吉郎だ。」
「儂は妹の方が好みだな。又次だよろしく。」
「あらあら可愛らしい妹さんじゃない。私は稲瀬のにに。喜多と呼んでくれたらええよ。」
「今日が初めてなんですって。可愛い妹じゃない。我は洲田のにに。多江よ。」
 と、声をかけられるが香久耶は恥ずかしく“あ、はい“と答えるのが精一杯だった。
「似てはおるが大人しい娘さんじゃ。ほれ饅頭じゃ。」
 と、老婆が饅頭をくれた。香久耶はニコッと笑顔を浮かべパクリと饅頭を齧った。
「花婆、我にも饅頭じゃ。」
 と、神楽が手を差し出す。
「分かっておる。神楽は食い意地が張っておるから二個じゃ。」
 と、花婆は饅頭二個を神楽に渡した。
 この何とも言えない団欒とした雰囲気。温かく皆が迎え入れてくれるこの状況に香久耶は真新しさを覚えた。卑国で生まれ、稚子で育った香久耶には他国の民と交流する機会はなく。あっても伊都瀬の付き添いで神や貴族と話すぐらいである。其れが今は他国の民とこうして交流をしている。これが香久耶には嬉しくて堪らなかった。
「そろそろ始まるのじゃ。」
 こそりと神楽が言った。
「いよいよじゃな。」
 胸をときめかせ乍ら香久耶は舞台を見やった。そして、演者達がゾロゾロと舞台に上がってきた。

次のお話

前のお話

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