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話せるようになりたい⇄話せなくてもいい/かんもくフォーラム

活動を始めた頃の私は、「話せないなら話さなくていいのではないか」(当事者だけが無理に変わる必要はないのではないか、社会の変化や環境調整の方が大事なのではないか)と発信していました。場面緘黙の専門的支援や治療を受けていないため、それを受ける自分を想像することも全くできなかったですし、治そうとして治したわけではない私には「治そうとする」こと自体しっくりきていませんでした。

ですが、場面緘黙について学ぶうち「話せないなら話さなくていい」とは言えなくなっていきました。「話せなくて困っている」だからやっぱり「話したい・話せるようになりたい」という当事者にとって、「話せないなら話さなくていい」というのは、当事者自らが「話せるようになること」を妨げてしまうのだと知りました。それは社会適応のための治療のみではなく、「話したい」という人間の根源的な欲求であり、本能にしたがう行為でもあると感じたのです。場面緘黙を知らずに大人になった人たちも、皆どこかの地点で、話せるようになるため、自ら決死の覚悟をし、例えばアルバイトを始めるなどの行動を取っていることも多いです。

もちろん、場面緘黙の人やもともと口数の少ない人がそのままで過ごせる社会や、そのような文化を築くことも大切ですし、「話せなければ生きていけない」と私たちに感じさせる社会は変化すべきとも感じています。「話せなくてもいいよ、話さなくてもいいよ」という居場所や発信も、渦中の人を救うものであるとも思います。かつ「そこに在るだけでその人の身体は何かを表現している」ということも大切にしたいです。

そのような両輪(社会モデル・医学モデル)+αを前提として、「話したい・話せるようになりたい」「話せるにこしたことはない」(日常生活のなか何度となく意識させられてしまうこともある)という当事者の気持ちと、それを叶えるためにステップを踏める仕組みや支援、居場所はやはり必要であると、現在は考えています。

話せるようになりたい人には、そのための支援を受けられる制度やしくみを。話せるようになるための支援を望まない人・もともと口数の少ない人には、そのままで心地よく暮らせる環境を。どんなひとにも、不自由を自由にする術やツールを。もっと手前の段階、生存さえ危ういときには、SOSを伝えやすく頼りやすい場所を。そして、緘黙のことをわかちあえる居場所を。

話したい・話したくない・話せるようになりたい・なりたくない・ならなくていい。気持ちが行ったり来たりすることもあると思います。「もし困っても大丈夫」と、安心して行ったり来たりできる社会がきっといい。話せるようになることよりも、自分らしく生活できることを基盤に、と思います。

だからこそ、「かんもくフォーラム」のようなイベントはやはり大切に思えます。フォーラムで語られたような理想的な支援にたどり着ける人はまだまだ少ない、学校や職場で合理的配慮を受けられている人もまだまだ少ないのが現状かもしれませんが、徐々に合理的配慮を受けられるケースが増えているとも聞きます。今回のフォーラム参加者は685名(オンラインの可能性・参加しやすさを実感)とのことで、また少し理解の歩みがすすんだと思いたいです。

高木先生からは、皆で認知度や支援の必要性を広げるための具体策の提示もありました。とくに「私(たち)は無力だ」と思ってしまいがちな当事者・経験者も含め「まだまだ私たちにもできることあるね!」という雰囲気につつまれたことが、今回のフォーラムではとても心に残りました。個別的な困難を抱えている苦しい状況の人たちも、何とかゆるくつながっていけますように。私にできることがあるだろうか、あらためて考えています。

■第5回かんもくフォーラム(2020)の動画は無料公開されています。知識と理解、支援の方法など、とてもわかりやすくコンパクトにまとめられていますので、是非ご覧ください。初めて場面緘黙を知る人など、場面緘黙理解の入り口としても最適な内容だと思います。


【かんもくフォーラム】講演part1
「場面緘黙の理解と対応入門」


【かんもくフォーラム】講演 part2
「今、私たちにできること」


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