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歓楽街夜蝶

「あまりネット上でマウント取らないほうが良くないっすか?姐(ねえ)さん。」
背後から声をかけてきたのは、ついこの間まで塀に囲まれた中にいた安治郎。通称銀次。名前がいくつもあるとややこしいがそう呼ばれたいのか呼ばれたくないのかはわからない。が、とにかく顧客には本名を勿体ぶって明かさない人が多い。「銀次さん。今夜は何処に連れて行ってくれるんですか。」李涼はさも待っていた人とようやく会えたと言わんばかりに満面の笑みで迎えた。安治郎は李涼(りりょう)の晴れやかな笑顔に照れた様子である。営業スマイルなのに男は例外なくこんな手に弱い。「寿司でも行きますか。」
李涼はこのところ毎日同じものを同伴で食べているなと思いつつも「ああ嬉しい!食べたかったんです。」とはしゃいでみせた。「ところで銀次さん。わたし、SNSでマウンティングも自慢もしていませんよ。いじわるなことを言わないでください。」と言うと安治郎は答えた。「ひとつ何十万もする帯留めを買ったとかエルメスのバッグを買ってもらったとか車を買い替えたとか、週に一度は写真を上げているじゃないですか。ああいうのは敵を作るばかりであまり得がないんじゃないですかね。」李涼は笑顔を作ってみせた。「ご忠告をありがとう。でも少し余計なお世話です。このところ365日休む暇もないほど店が忙しいので、持ち物自慢くらい可愛いものではないですか。」「まあそうですね。ただ持てない男や持たない女の嫉妬っていうのはあまりばかにはできないもんですよ。」安治郎はいい客だ。あまり羽振りが良いとは言えないが定期的に金を落としてくれている。なんでも意外なことに、元々昔はお手伝いさんがいるような旧家のお坊っちゃんらしかった。安治郎は暇なときには呼べば大抵の場合来てくれる。中の上くらいの客だから大切にしている。でも今夜は少しばかり説教めいた話し方がわずらわしくて早く店に戻りたくなっていた。洒落た内装の寿司屋のカウンターは、一枚板で出来ていてピカピカに磨かれ、顔が映るくらいに艶を出していた。「おつかれ様。」ビールで乾杯した。「俺は姐さんが」「ちょっとまって。その呼び方やめてくれません?なんだか姐(あね)さんみたい。少し陳腐すぎない?嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりますよ。それにわたしはあなたの姉さんでもないしね。」「すいません。わかりました。姐(ねえ)さんが、いえ李涼さんが。例えば店のオーナーではなくてね。宝石も着物も持たない人で、築年数10年くらいの六畳のアパートに住んでいる。スーパーのレジ打ちとかで生計を立てていてですね。仕事のない日はジャージで煎餅を齧りながらゴロゴロしているだけで、漫画とかが趣味の女だったとしても。俺は全く気にしないし変わらずにずっとずっと好きだと思うなあ。」
「なんでわたしの本当の姿を知っているの?怖いわぁ!」
と李涼がにらむ顔つきをすると「えっ本当に?」と銀次は意外な誤算に驚いていた。「うそに決まってるじゃない。」銀次はホッとため息をついて「おどかさないでくださいよ。俺の中では、なんかこう、気軽に話しかけられるような女じゃないんでねえ。あまりにも庶民的すぎて、もうびっくりしましたよ。で、俺の告白を見事にスルーしてくれましたね。傷つくなあ。」「好きとか愛してると言われるのはこの仕事の挨拶のようなものなんです。」
「いや、本気なんですよ。姐(ねえ)さん、いや李涼さん。結婚してください。」
カウンター越しの大将は視線を上げてすぐにそれを、まな板の上にもどす。周りの人たちは一瞬だけ会話が止まった。が、すぐに何事もなかったようにまた賑やかになった。結婚。冗談じゃない。事務所を抜けられないのは理由があるのだろうが、好きで喧嘩してるわけでもない。義理で塀の向こう側に入るような、保証も頭脳も地位もない男。そこらのサラリーマンより将来のない安治郎と何が面白くて結婚なんか。でも。李涼は笑みを浮かべた。試してみたくなったのだ。賭けというやつに身をゆだねてみたくなったのだ。このままだと仕事と結婚することになりかねない。
「いいですよ。」「え!いいんっすか。」条件があるんだけどね。「わたしあと3つは店を持ちたいんだけど。それも銀座に。どう?夢を叶えてくれないかしら。」わたしはダメ元で答えてみた。

四年後。
安治郎は本当に夢を叶えてくれた。数億円もどうやって稼いだかはわからない。元々隠し持っていたのかもしれない。
「ママ〜!わたし今夜はお寿司が食べたい〜!」
小さな娘がわたしの着物の裾を引っ張った。
「はいはい。パパと3人で行きましょうね!」
わたしは今はもう安治郎とは呼んでいない。
仲良く手を繋いで3人は夜の繁華街に消えていく。




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