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小説『エミリーキャット』第65章・the lost world

彩はまるで切ない夢から覚めたように、
と同時に未だ夢の中に居るかのように、泪をひとすじ異様なほどゆっくりと、まるでスローモーションのように流した。

彩の濃紺のセーターの鎖骨の上に零れ落ちたその泪は、セーターの濃い地色の上を弾く霰(あられ)か雹(ひょう)のように一点に落ちて砕け散るようにその銀いろの飛沫を放ち、やがてセーターの編み目の奥へと消え入るようにその輝きを消失していった。
山下尚三は黙ってその様を酔いで
霞む視界の向こう側からなんの関心もない別世界での現象のように見つめていたが、やがて薄黄金(うすきん)いろの液体を満たしたグラスを一気に呷った。

彼は単なる吐息ともため息ともつかぬどこかやりきれない息を吐くと、黒い革張りのソファーの背に勢いよく凭れ込んだ。
革張りのソファーはギィと大きな音を立てて軋み、その音により、彩はふいに現実に引き戻される心地となった。

『エミリーは…』と彩は言った。
『その後…ニューヨークへは行ったんですか?』
『行ったよ、
でもそのことについては、実は僕はあまりよく知らないんだ、
エミリーは聴いても曖昧にしか答えてくれなかったからね、
それにちょうどその頃、
ずっと仲の良かった僕達の間に、不協和音とまではゆかないが…
ちょっとした隙間風が吹いていたんだ、だからかもしれない…
彼女があまりニューヨークでのことを僕が聴いても教えてくれなかったのは…。
僕はゲイだが、そのことを公にしたくない人間だし、親の決めた女性と当時結婚を前提に交際をしていてね、
エミリーはそれを不誠実だと怒っていたからね』
『山下さん、でもご結婚なさっていらっしゃるんじゃ、』
『ああ』
と彼は左手のゴツゴツと節くれだった薬指に嵌めた指輪にそっと触れると、まるで急に襲ってきた痛みに耐えるかのように固く瞼を閉じたまま言った。
『離婚してからもずっと嵌めたままでいるんだ、
そのほうが人からいろいろと詮索されずに済むからね、
僕が離婚したことはここでも社長しか知らないんだ』
『そう…そうだったんですか…』
すると山下はその後何も彩に考える隙を与えないほど間髪を容れず、さながら問い質すような口調で身を乗り出すとこう言いつのった。
『彩ちゃん君はエミリーと…
あの森で逢ったんだね?
確かにあの森だったんだね?
間違いは無いね?』
『ええ、あの森です。
ビューティフル・ワールドの在る…あの森です』

『そうか…ではあの噂は…
やっぱり本当だったんだ』

『ニューヨークでのことや…
その他の…
たとえばケンイチさんのことなどもきっといつの日か、エミリーは私にはいろいろと話してくれると思います…
だって私達はもう家族だし…
それに彼女と私との間には不思議な切っても切れない何かがあるから…。
血よりも濃い何かが…
だからエミリーも私も、
お互いこう云っているんです。
私達は蝶番(ちょうつがい)が壊れてバラバラになったロケット・ペンダントの片割れ同士なんだって、
永い間一つになれる時をきっと私達は時空を超えてお互いに待っていたんだって…
だから…巡り逢うべくして巡り逢った者同士なんだって、

だから…
エミリーは私のベターハーフなんです。

彼女に出逢うまでこんなこと考えたことすらなかったのに、
今ではもうエミリーは男女の垣根を越えて大切な私のソウルメイト。

まるで昔から知っていた者同士のような…

姉妹のような…

幼馴染みのような…

恋人のような…

親友のような…

見知らぬもう一人の自分自身のような…

だからエミリーと森で別れる時、約束したの、
一ヶ月後には必ず森へ帰るって』

『一ヶ月後…』

と緊張感の顕れなのか、
その言葉を舌の上でまるで転がすような発音で囁くと、山下は彩を下から掬(すく)い上げるように見つめ上げるとまるで不意打ちのようにこう言った。

『でも君はその森へはきっともう二度と帰れないと僕は思うよ、』

『何故?』
と彩は思いも寄らぬ罠にかかって傷ついた小鹿のような眼をして山下を見た。
『君は帰れる何か特別な方法や、経路を知っているのかもしれないが…あるいは君だけがエミリーから霊的に導かれるのかもしれないが…
…普通に考えると現実的には到底、無理な話だ、
何故ならばあの森はもう存在しないからだ。』

『存在しない?』


彩は惑乱のあまり一瞬、外国語を聴いたかように咄嗟にその言葉の意味を理解することが出来ないままに山下の言葉をおうむ返しにした。

しかし山下の発した言葉はさながら防水布の上へ一滴こぼした水滴のように固く張り詰めた彩の心の表面を虚しくつるつると走り回っていたが、時間差を経てそれは彩の中へと徐々に浸透してきた。

その為に彩は苦いものを奥歯で思わず噛み締めてしまったかのような渋い顔をしてその眉根に濃い怯えの影を造った。

それには頓着しない山下は更に淡々とこう言いつのった。

『そう、
あの森はもう存在しない、
森の中に建っていたあのビューティフル・ワールドも…
何もかも今やほぼ消え失せてしまったよ』
『消え失せたって…
どういうことですか??』

『あの森は館を残したままの状態で暫くの間は家主が亡くなった後も荒れ放題のまま残されてはいたが…今は森も全て切り拓かれ、
館もすっかり取り壊されて…

そこに今では高層マンションが建ち並んでいる。』
『えっ…高層…』
彩はもともと大きな瞳を更に瞠目しその顔色は見る見る血の気を失っていった。
『そもそも君はあの森へ…
一体どうやって行ったんだい?』
『…どうやってって…
自分でもよく解らないんです。
最初は本当に目に見えない力に導かれるようにして…
いつの間にか森の中のあの館へ辿り着いていて…
でもエミリーと親密になってからは…
ごく普通に電車やバスに乗って彼女に逢いに…』
すると山下がその先を遮るように彩に言いつのった。
その声は感情を抑えようと努めるあまり恐ろしく冷淡に響いた。
『吉田くん、これは僕の個人的な勘でしかないのだけど…』
『…なんですか?』
彩はもう山下にこれ以上何も言って欲しくないと思いつつも、不安に喘ぐように揺れ動く水々しい瞳を彼に向かってまるで抗うように放った。

『君はもう…
あの森を見つけることは出来ないと思う…
というよりも森のほうで君を受け入れてはくれないような気がするんだ、君はもう既にあの森も…
ビューティフル・ワールドも…
そしてエミリーも…
永遠に失ってしまったんだよ』

『…何故そんな風に思うんですか??』

彩の声は悲しみと不安とに悲鳴を上げたかのようになった。

『何故だかは解らないけど…
そんな気がするんだ、
君は僕からいろんなことを知ってしまった、
もうあの秘密の森は君には二度と扉を開かないというか…
見つけることは出来ないような気がするんだ』
『そんな…そんなことない!
だって約束したんです私達、
一ヶ月したら必ずこの世界での、すべてのしがらみを整理して…
そして遺棄して…
エミリーのもとへ身体一つで行くって!』
『ねえ吉田くん、
君は冷静になってよく考えたことはあるのかい?』
『何をですか?』
彩は山下の顔はもう見ずに目の前の卓上にあるワイングラスを置いた跡の濡れた半円だけに意識を集中させようと無駄な努力をした。でないと心が粉々に壊れてしまいそうだと彼女は思った。

『エミリーは…
もう死んでこの世の者ではないんだよ』

『…解ってるわそんなこと』
と彩は唇を震わせて言った。
『だったら一体どうするつもりなんだ君は、
エミリーのとこへ行くということは…君もやがては』
『ええそうよ!
私もエミリーと同じゴーストになるということでしょう??
それでも構わないと思っているわ、私はあそこでエミリーとずっと平和に暮らしたいの、
たとえゴーストとなったって私達は愛し合ってあそこで永久(とわ)に安らかに暮らすことが出来るわ!エミリーと私と、そしてロイやロージィやクリスやバターカップや…大切な家族達と!
エミリーとも彼らとも私との間にある強い絆はそんなことで揺らぎはしないわ、
それについて一体山下さんに何が解るって云うの??』
『ねえ吉田くん、
これは僕の提案なんだが…
一度今度の日曜日にでも僕と君とであの''ビューティフル・ワールド''の在った場所へ行ってみないかい?もしよかったら僕が車で連れて行って上げるよ、』
『……結構です!』
と心の中で叫んだ言葉は喉がからからに渇いたようになり、どうしても発することが出来ず代わりに彩の喉からは掠(かす)れた吐息だけが虚しく漏れた。
その苦しい喉に手を当ててまるで誰かに首を絞められているようだと彩は思った。
『エミリーキャットの都市伝説では昔からよく聴く話は決まってこうだった。
心に深過ぎる傷を負った孤独な人しかあの森を見ることが出来ないし増してや入ることも出来ない、それも森を見た、
入った、
森の奥であの館ビューティフルワールドを見てそこでエミリーと出逢った、
そういう人々の体験談は決まって夕刻から夜にかけての話だ』
『……』
『だから敢えて僕らは昼間行ってみよう、
昼間、君はあの森が今はどうなっているのか…それを見るべきだと思う』
『昼間…でも…昼間行ったら…』
『そうだ、あの森は無いし、
あの館も無い、
あるのは高層マンションだけだ』『……』
彩は平素の彩らしくないあまりにも狂おしい衝動が山下に向かってワイングラスを叩きつけ猛り狂いそうな想いとなって津波のように自分の中に襲来してくるのをじっと瞳を閉じて必死で耐えた。

『…でも夜に行けば』

やっとの思いで言葉にしたその彩の声は弱々しくまるで瀕死の患者が発した譫言のようだった。
『もしかしてエミリーの森へ君なら行けるのかもしれない、
だけどそれは危険なことだと僕は思う、だからもうあそこへは君は行ってはいけないんだ、
吉田くん』
一見冷徹を装いながらも山下が彩を本気で危惧して懸命に諭そうとしていることが彩に今更遅れた波紋のように伝わってきたが、
それすら今の彼女には苦痛でしかなかった。

『……私の人生は私が決めます、
私はエミリーのもとへ行きたいんです。
彼女を愛しているわ彼女も私を必要としてくれています。
お互い私達は必要としあっているの、

それにエミリーはたった今、
この瞬間でさえ、
私が帰ってくるのをあの深い森の広過ぎる館の中で、
孤独を噛み締めながら今か今かと待っているのよ、

私にはそのことが痛いほど解るの、信じてひたすら祈るような想いで待つことの辛さを…
そしてそれが叶わなかった時の悲しみも…。
私はエミリーにそんな想いは絶対にさせたくはないわ、
だから私はどうしてもあの森を目指します』

『解った…
でもその前に二人でまず昼間にあの森の跡を見にゆこう、
そこから先を決めるのは君だから僕はもうそれ以上何も言わない、でもまず、
今ある現実を君に見て欲しい、
見るだけでなく見た後、
冷静になってよく考えて欲しい、
君には充実した仕事や私生活という現実もあるし、
何よりも君を心から愛してくれている婚約者がいるんだ、
そのことを忘れてはいけない、
そうだろう??』

『……』

あなたに何が解るというの?
彩は心の中で叫んだ。

子供の時からエミリーと長く付き合ってきた貴方より私とエミリーとのほんの数ヵ月間のほうがどれだけ深く濃密で永かったことか、
あなたはエミリーのことを何も解ってなどいやしない、
そして私のことも…
婚約していながら私はずっと、
言い知れぬ孤独と怯えと虚しさの中に居た…。

『ねえ彩ちゃん、
エミリーはあの世の者だが…
松雪くんは生きているんだ、

そして彩ちゃん、君もまた生きているんだよ!』

『……』

『今度の土曜日、
一時に会社の前で逢おう、
僕が君を連れてゆくよ君達のあの約束の森へね、

そこで今生きている君の現実を、君は見なくてはいけない。

君が行こうとしているあの森も、森の中のビューティフル・ワールドももう異次元の…
とうの昔に失われてしまった死者の国なんだということを、』



To be Continued…

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