見出し画像

【第28章・幕間狂言(二)柳橋の女】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十八章  幕間狂言(二) 柳橋の女

 娘を見送った後、こまの父親も浅草の店に戻る。彼を乗せた町駕籠が柳橋にさしかかったとき、川沿いに建つ料亭、その三階の小部屋から、一人の女が外を眺めていた。

 女は、艶っぽい島田くずしの髪に、椿柄の振袖をぞろりと羽織っている。ベベン、チントンシャンと三味線を弄びながら呟く。
「おや。どこかの旦那が朝帰りかねぇ」

 この女、名は夕。歳は三十三。芸者であり、かつ、この料亭の女主人である。元は吉原の遊女であった。呉服屋の隠居に身請けされ、内藤新宿のはずれの閑静な住居でのんびり暮らしていたが、肝心の隠居がわずか二年でぽっくり逝ってしまった。
 隠居の四十九日も終わったある日、その長男が訪ねてきた。彼は、父親への孝行として、今後も夕の生活の面倒は見る。この家に住み続けてくれ、と言い出した。

「それは、どうも」

 そっけなく返した夕は、小首をかしげ、やや斜め下から男を見上げる。その瞳の艶っぽさ。天下の吉原で、傾城とまで呼ばれた美貌は、まったく衰えを見せていない。

 長男は、急にそわそわし出し、そして、あっさり本音を吐いた。要するに、今度は自分の妾になれ、ということだ。

「考えておきましょう」

 長男を帰した後、彼女は本当に考えた。新宿は、現代ではどこもかしこもビルばかりだが、江戸時代、宿場の周辺はまだまだ田畑が多かった。晴れた日には、富士までも見通せた。この時、夕が縁側から見ていたのも、そんな穏やかな田園風景である。

 巷ではよく聞く話だ。悪い話でもない。でもねぇ・・・。

 夕は翌日、上品な大島紬の小袖によそ行きの羽織を着て、日本橋の店を唐突に訪れた。そして、先の提案をネタに長男夫婦を脅し上げた。商家、特に女性客の多い呉服屋では、殊のほか外聞を気にする。結局、長男夫婦は、手切れ金として三百両を出した。

 夕がいるのも憚らず言い争いを始めた夫婦を尻目に、さっさと店を出る。彼女は、内藤新宿には戻らず、愛用の三味線と三百両の包みだけを持って、今は小料理屋の女将に納まっている先輩遊女のもとに身を寄せた。そして程なく、その金で柳橋に小さな料亭を買ったのである。

 柳橋は、神田川が隅田川に流れ込む河口部に位置する。当時、この地域は、まだ開発が始まったばかりで、店も数軒しかなかった。しかし、幕末には五十軒を超す料亭や船宿が軒を並べる一大歓楽街となったことを思うと、夕には、先見の明があったのであろう。

 彼女は、吉原で身に付けた三味線の腕を活かし、自らも座敷に出て商売に励んだ。吉原の有名店で大夫にまでなった女である。顔もいいし、客あしらいも上手い。数年後には、隣の料亭も買収し、一部を改修して船宿にした。今や、年々賑わいを増す柳橋の顔役の一人となっている。

 階下から若い男が上がって来て、夕に声をかけた。
「女将さん、お早うございます」
「ああ、おはよう。三吉、素川の旦那は起きたのかい?」
「いえ、まだのようです」

 夕と狩野素川は、半同棲状態にある。しかし、恋仲かと言われれば、少し違う気がする。夕は三味線、素川は絵画と、一芸を究めんとする者同士、理解者、盟友という気分が強い。双方、経済的に自立していることも二人の関係を規定する上で大きい。

「なら、赤穂浪士の出来損ない連中は?」
「あの連中なら、とっくにそれぞれ仕事に行きましたよ」
「ははは、元気だわねぇ」

「はい。真夜中過ぎに素川様に連れられて来て、夜通し騒いでいたのに。いやはや、元気だけは有り余っているようで。しかし、いいんですか。結局、討ち入りはなかったんですよね。ツケの棒引きって条件もご破算では?」

 昨日の午後、素川が血相変えて駆け込んできた。素川から大名屋敷への討ち入り話を聞かされた夕は、面白がって肩入れした。ツケの棒引きや借金の肩代わりを餌に荒くれ者を集めてやったのだ。

「いいのさ。今更やっぱり払えなんて、そんなしみったれたことが言えるかい」
「さすが女将さんだ」
「それより、五つ半(ほぼ午前九時)になったら、忘れずにあの人を起こして上げておくれ。今日も何か、大事な会合があるって言っていたからね」
「承知しました」

「そうだ。昨日、摂津から新しいお酒が届いていたね。あれ、一本燗にして持ってきておくれ」
「女将さん、朝ですぜ」
「馬鹿だね。客に出す前に味見しとくんだよ。仕事ですよ、仕事。さっさとお行き」

 外は、昨日と変わらぬ冬の朝である。

 残念だね。討ち入りしてりゃ、成否はともかく、さぞや大騒ぎになっていただろうに。しかし、男どもの馬鹿騒ぎを見事に抑えたのは、若い女絵師だったという。しかもその娘、たった一人で十万石の大名屋敷に乗り込み、将軍の側近を相手に堂々と談判してきたらしい。面白い娘がいるものだ。

 あたしゃ、好きだねぇ。一度会ってみたいよ。

 店の前に数台の大八車が着いた。若い衆が、手際よく酒樽や食材の詰まった木箱を下ろし、どんどん店の中に運び込んで行く。夕は、その働きっぷりを見下ろしながら、形のいい上唇をぺろりと舐めた。

次章に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?