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【第27章・幕間狂言(一)扇屋の娘」融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十七章  幕間狂言(一) 扇屋の娘

 江戸の朝は明け六つ(ほぼ午前六時)に始まる。各町の木戸が開き、自由往来が可能になる。武家屋敷でも商家でも、下働きの者たちが寝床から出て動き始める。

 文化八年(一八一一年)一月二十日、狩野融川切腹の翌日である。六つ半(ほぼ午前七時)を過ぎた頃、浜町狩野屋敷の門脇のくぐり戸から、栄の妹弟子で奥様付きの女中でもあるこまが出てきた。
 両国橋の西詰まで二町(約二百十八メートル)もない。すぐに橋のたもとの一本松の横にある茶店が見えてきた。店の前では、すでに看板娘と奉公の少女が開店準備を始めている。

 雑巾を手にした看板娘が、こまに気付いて声をかける。
「あら、青嵐堂のお嬢さん。お早うございます」
「おはよう。寒い中、ご苦労様。それはそうと、ちょっと、おみっちゃんを貸してくれないかしら」
「それは構いませんけど」

 こまは、自分の背丈よりも長い箒を持って店の前を丁寧に掃いている少女を手招きした。
「おみっちゃん、うちの店にお使いを頼みたいの。とても急いでるの。私のおとっつぁんに、この文を渡してちょうだい。分かった?」
「はい!」
「いい返事。さ、手を出して。はい、お駄賃。急ぎだからいつもの倍ね」
「あ、ありがとうございます」
 パッと表情を明るくした少女に、こまも笑顔を返す。
「お嬢さん、済みません。おみつ、さあ、行きな。走って行くんだよ。歩くんじゃないよ」

 こまは、勢いよく駆け出した少女の背中を目で追いながら言った。
「私、二、三用を済ませて戻るから、もし、おとっつぁんが先に来たら、中に入れてお茶でも出しておいて。これ、お茶代ね」
「えっ。お嬢さん、これは多過ぎます」
「いいのよ。まだ開店前でしょ。迷惑料込みだから、取っておいて」
「恐れ入ります」

 今日、浜町狩野屋敷では、昼前に数人の客を迎える予定だ。急なことであり、仕出し屋や菓子屋に朝一番で連絡を入れておく必要があった。下働きの者でも済むお使いだが、こまは自ら買って出た。実家と連絡を取る機会が欲しかったのだ。

 彼女の実家・青嵐堂は、浅草寺門前に店を構える高級扇屋である。その莫大な売上の大半は、幕府奥絵師・浜町狩野家の御用商人という地位から得られていた。

 青嵐堂の本店は京都にある。創業百年を超える名店だ。江戸の店はその分家で、こまの曾祖父を初代とする。
 江戸での商いを成功させるためには幕府高官との繋がりを持たねばならない。青嵐堂の主力商品は扇、特に、上流階級向けの高級扇である。それを考えると、奥絵師との繋がりが不可欠であった。将軍の身の回りや大奥で使用される物品は、高い美的水準が求められ、その選定は奥絵師の仕事とされていたからだ。

 そして、奥絵師四家の中で最も歴史の浅い浜町狩野家に狙いを定めて運動し、御用商人の地位を得た。一度その地位を得たからとて油断は禁物。折々の付け届けは欠かさず、さらに、常時、店主の血縁者を浜町狩野家に内弟子や行儀見習いとして送り込み、縁を保ってきた。

 現在、浜町狩野家に入っているこまは、店の跡取り娘である。店の経営に有益な情報を得ると、今朝のように父親に連絡して寄越すのだ。

 こまが用を済ませて茶店に戻ると、すでに父親は来ており、奥の長腰掛に座って茶をすすっていた。
 両国橋西詰は、明暦の大火後に設けられた火避け地である。そのため、店舗や芝居小屋など、建物は皆、いざとなれば簡単に取り壊せる仮設の造りだ。冬の早朝、すきま風が少々寒い。

「おとっつぁん、朝早くにすみませんね」
「番頭さんが戸格子を開けた途端に女の子が飛び込んで来て、急げ急げって。驚いたよ」
「おとっつぁん、驚くのはこれからですよ。昨日、法眼様が亡くなったの」
「えっ、浜町の殿様が? まだお若いのに」

「しかもね、ご自害なさったのよ。切腹されたの」
「な、お腹を!」
「おとっつぁん、声が」
「すまん。だってお前、さすがに驚くだろ。しかし、何をなさったんだ? 何のお咎めで?」

「そうじゃないの。詳しくは長くなるから後で話すけど、とにかくね、ご自身で勝手に切腹しちゃったのよ」
 こまに悪意はないが、言葉には呆れた感がこもっている。こまが浜町狩野家に入っているのは、あくまで店のためである。融川を生涯の師と決め、全人格を懸けて絵画に打ち込んでいる栄などとは異なる。

「そうなると、お家はどうなるんだ?」
「そうね。昨夜の話では、ひとまずお取り潰しは免れたみたい。でも、安心は出来ないと思う。だから、前から言ってるでしょ。出来るだけ早く、浜町狩野家とは別のお城への伝手を確保しておかないといけないって」

「分かっているよ。お前に言われて、機会を見つけては、鍛冶橋様のお屋敷にも顔を出すようにしているが、まだ家老止まりだね。ご当主の探信様に御目通りして、正式にお出入りを許されるには、もう少しかかるだろう」
「仕方ないわ。木挽町や中橋(狩野宗家)と違って、門前払いにされないだけましよ。以前、法眼様が言っていたわ。鍛冶橋は長く低迷しているけど、探信様の代で必ず大きく飛躍するって。おとっつぁん、せいぜい頑張って下さい」
「ああ」と、こまの父親が大きく頷く。

「あっ、そうそう。その探信様、あの方も法眼の位が欲しくて、いろいろ運動してらっしゃるみたいよ。何かお力になれないかしら」
「分かった。調べてみよう。しかし、お前、少し悪い顔になってきたよ」
「まあ、失礼な。私はお店のことを考えているだけよ」
「だといいが」

 こまが、父親の前に置かれた茶碗に手を伸ばした。ほうじ茶の香ばしさが口中に広がる。
「あとね、お栄様には注意して。浜町家が潰れずに残るとすれば、今後はあの方を中心に回って行くことになると思う」

「小杉のお嬢様のことだね」
「そう。お取り潰しを免れたのは、お栄様が、阿部備中守というお大名と話をつけてきたお陰なのよ」
「備中守の阿部様と言えば、お前・・・」

「ね、凄いでしょ。絵画の技量を上げる以外は関心の薄い方だと思っていたけど、寝た子を起こしちゃったみたい。奥様なんて、すっかり頼り切ってるわ。逆に、ご家臣の皆さんは、心中穏やかじゃないみたい。面白いわね」

「そうか。まあ、あの方は、元々法眼様のお気に入りで、腕も図抜けているから、優先的に条件のいい仕事を回してきたけど、一層気を付けるよ。それはそうと、お前はこの後どうするつもりだい?」

「内弟子修行は、前倒しで切り上げることになりそうね。でも、しばらくは奥様や若様たちの傍を離れられないわ。ここで逃げ出しちゃ、女が廃るでしょ」
「大事な跡取り娘なんだ。無理はしないでくれよ」
「分かってます。じゃ、そろそろ戻るわね」

 こまの父親は、茶店の前まで出て愛娘を見送った。早足で去って行くその背中を見ながら思う。元々利発な子だが、末恐ろしいな、と。

 こまは、女主人として自ら店を経営する気満々だ。同じ家付き娘でも、店のことは入り婿に丸投げしてきた祖母や母とは大きく異なる。
 聞くところによれば、京都の本家の初代も女だったそうだ。最初、京都の南端、東寺(教王護国寺)の脇に小さな扇屋を開いた。それを、わずか五年で、四条通のど真ん中に間口八間(約十五メートル)、奥行十二間(約二十二メートル)の構えを持つ大店にしたという。

 突然、先祖の血が蘇ったのかもしれない。頼もしい限りだが、婿選びが大変だ。まったくもって頭が痛い。

 空はすっかり明るくなり、往来の人も増えてきた。目を両国橋の方に転じると、橋のたもとに駕籠かきが数人たむろしているのが見えた。

次章に続く

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